小学生のころ、従姉夫婦が奈良県・吉野に住んでいた。家のすぐ前にきれいな川があって、夏休みが来ると待ちかねたように居候しに行った。川で泳いだり、近くの林にすむ昆虫をつかまえるのに忙しく、一ヶ月の滞在は夢のように過ぎた。
京阪神のA市から、どこをどうして電車に乗り換え、子供にしてみれば気の遠くなるほど長い時間であったであろうが、次から次へと変わる窓外の景色にこころを奪われていたように思う。
二年生から四年生まで夏といえば吉野だった。吉野は昆虫の宝庫で、いままで見たこともないような美しい蝶や、変てこりんな形のトンボ、てのひらほどの大きさの甲虫がいた。クマゼミの鳴き声のけたたましさには慣れていたが、山鳩やフクロウ、タヌキの鳴き声には耳をそばだてた。
かまどは何度も見ていたが、実際に使われるのを見たのは初めてだった。従姉夫婦の間借り部屋は二階にあったが、階下に住む家主の奥さんが、やっぱりガスよりマキで炊くほうがご飯はうめえよネ、とか何とか言いながら、プロパンのガスコンロにはほとんど手をつけなかった。
夏、朝の訪れは早い。夕べはゆっくり暮れる。土間でかまどがめらめらとオレンジ色の炎を吐いていた。ときおり中でパチンとはじける音や、ゴォーッと怒っている火の声がした。
吉野では木は生活の礎だった。明治以来、伐採と植林をくりかえした杉、ヒノキ。樹齢80年から100年を経た杉の良木からつくられる樽丸(たるまる)とよばれる酒樽用材の生産は400年の歴史をもち、林業にたずさわる山林労働者はもとより、主婦ややもめ(未亡人)にとっても重要な意味があった。
昭和の初め頃、私が寝起きしていた家の前を、直径80aくらいの杉の大木を切り、三尺ほどに寸断した樽丸をかついで山をおりる女衆が何人も通ったらしい。
自分の体重より重い二十貫(75s)の木を、杖をつきながら山を下っていく五、六人の女の姿がまぶたに浮かんだとき、なぜかこころが痛んだ。ちゃんとお金はもらっていたのだろうか、もらっていても、雀の涙ほどのなけなしのお金ではなかったろうか、そんなお金で生計を立てていくことができたのだろうか。
木の、あまりの重さに長年耐えて、背中や腰の曲がった女も多くいたにちがいない。脊椎ということばは知らなかったが、脊椎の異常を訴え、重い病に苦しんだり、亡くなった女もいただろう。
ある日、夕食のとき、そんなことをふと思ったら、女の顔に祖母の顔が重なり、胸がつまって、食べかけの麦飯がのどに入らなくなった。そばにいたおとなたちはみな一様に心配そうな顔で私を見つめたが、こんな思いはこころに秘すべきもので、人に語るのは恥ずべきことであると考えていた子供は、とっさに照れ笑いをして黙々とごはんを食べた。
( つづく )
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