2001-07-21 Saturday
森のいのち(2)
 
 わたしがいたころの吉野では、情報という情報は皆無に近かった。テレビもなかった。始終雨が降っているように、ザァーッと雑音のするラジオはあったが、家の人々は天気予報と時報くらいしか聴いていなかった。メディアによる情報はゼロに等しかったが、口から口へ伝えられる情報量は豊富であった。
家々には、昔からの言い伝えや、隣村でおきた出来事をかたる語りべが必ずひとりはいて、定番の話のほかに、郵便配達や行商人からきいた町の即日情報を、見てきた者のように生き生きと話してくれた。
 
 満月の夜には、つねとはちがい、とっておきの話を独特の口調で語ってくれた。
爺さんは突如、若い女や青年に変身した。平家の落人や、天皇の勅使に早替わりした。身分の高い貴族のご落胤に化けた。
そのほとんどの正体が、実は狐であるとわかったとき唖然とした。だまされたくやしさに歯ぎしりした。
 
 悪いことをする人間がいると、天狗がその人を山に導き、わざと道に迷わせ、夜になると強い風や大雨で不安な気持ちにさせ、とどめは、その人の頭上にある木の幹にカミナリを落とすのである。狂人のように鋭く折れ曲がる青白い光と、すさまじい大音響と地ひびきで、ブルブル震えている人間の前に天狗が現れて、人間が悔い改めるまで許さず、責めさいなむのである。
 
 人が死んで、円い棺に入れられて、土が掘られ、その中に埋められて、数日立つとウジがわいてきて……、などと聞かされて、その場から逃げるわけにもいかず、こわごわ聞いていると、ところがな、死人の魂だけは安らかに生きていてな、それだけは絶対に穢(けが)れず、山にいる神さんと一緒に暮らすんじゃそうな、と締めくくられ、ホッと胸をなでおろしたものであった。
 
 狐の話や恐い話を、帰ったら誰に話してやろうかとワクワクしながら眠りに落ちた。
 
 新月の夜、語りべは早めに床についた。夜が真っ黒な毛布になって、頭からすっぽりおおいかぶさる暗闇であったが、その漆黒の闇が、子供のわたしの想像力をどれほど掻きたててくれたことか。
森羅万象(ものみな)眠りにつき、静謐(せいひつ)な夜の深淵(しじま)があたりをおおう時、わたしは真夜中の詩人であった。
     
           ( つづく )
2001-07-16 Monday
森のいのち(1)
 
 小学生のころ、従姉夫婦が奈良県・吉野に住んでいた。家のすぐ前にきれいな川があって、夏休みが来ると待ちかねたように居候しに行った。川で泳いだり、近くの林にすむ昆虫をつかまえるのに忙しく、一ヶ月の滞在は夢のように過ぎた。
 
 京阪神のA市から、どこをどうして電車に乗り換え、子供にしてみれば気の遠くなるほど長い時間であったであろうが、次から次へと変わる窓外の景色にこころを奪われていたように思う。
 
 二年生から四年生まで夏といえば吉野だった。吉野は昆虫の宝庫で、いままで見たこともないような美しい蝶や、変てこりんな形のトンボ、てのひらほどの大きさの甲虫がいた。クマゼミの鳴き声のけたたましさには慣れていたが、山鳩やフクロウ、タヌキの鳴き声には耳をそばだてた。
 
 かまどは何度も見ていたが、実際に使われるのを見たのは初めてだった。従姉夫婦の間借り部屋は二階にあったが、階下に住む家主の奥さんが、やっぱりガスよりマキで炊くほうがご飯はうめえよネ、とか何とか言いながら、プロパンのガスコンロにはほとんど手をつけなかった。
夏、朝の訪れは早い。夕べはゆっくり暮れる。土間でかまどがめらめらとオレンジ色の炎を吐いていた。ときおり中でパチンとはじける音や、ゴォーッと怒っている火の声がした。
 
 吉野では木は生活の礎だった。明治以来、伐採と植林をくりかえした杉、ヒノキ。樹齢80年から100年を経た杉の良木からつくられる樽丸(たるまる)とよばれる酒樽用材の生産は400年の歴史をもち、林業にたずさわる山林労働者はもとより、主婦ややもめ(未亡人)にとっても重要な意味があった。
 
 昭和の初め頃、私が寝起きしていた家の前を、直径80aくらいの杉の大木を切り、三尺ほどに寸断した樽丸をかついで山をおりる女衆が何人も通ったらしい。
自分の体重より重い二十貫(75s)の木を、杖をつきながら山を下っていく五、六人の女の姿がまぶたに浮かんだとき、なぜかこころが痛んだ。ちゃんとお金はもらっていたのだろうか、もらっていても、雀の涙ほどのなけなしのお金ではなかったろうか、そんなお金で生計を立てていくことができたのだろうか。
 
 木の、あまりの重さに長年耐えて、背中や腰の曲がった女も多くいたにちがいない。脊椎ということばは知らなかったが、脊椎の異常を訴え、重い病に苦しんだり、亡くなった女もいただろう。
 
 ある日、夕食のとき、そんなことをふと思ったら、女の顔に祖母の顔が重なり、胸がつまって、食べかけの麦飯がのどに入らなくなった。そばにいたおとなたちはみな一様に心配そうな顔で私を見つめたが、こんな思いはこころに秘すべきもので、人に語るのは恥ずべきことであると考えていた子供は、とっさに照れ笑いをして黙々とごはんを食べた。
 
          ( つづく )
2001-06-24 Sunday
不滅の恋
 
 「不滅の恋・ベートーヴェン」という映画が何年か前に上映されたことがあった。ベートーヴェンを演じたのは、「レオン」でジャン・レノと渡り合い、「告発」で非道の刑務副所長を怪演したゲイリー・オールドマン。
「不滅の恋」は音楽スタッフが一流で、オケのロンドン交響楽団はともかく、「悲愴」、「月光」などを演奏したピアニストのマレイ・ペライア、ヴァイオリニストのギドン・クレーメル、チェロはテレビCM(リベルタンゴなど)でおなじみのヨーヨー・マ、指揮および音楽監督は先年亡くなったショルティという豪華メンバー。
 
 この映画で演奏された曲は上記の悲愴、月光のほかに、ヴァイオリン協奏曲、田園、運命、英雄、第九などで、ベートーヴェン・ファンならずとも耳を傾けざるをえないような、いわば垂涎ものの曲が目白押し。ベートーヴェンのような作曲家、あるいはレンブラントやロートレックのような画家を主人公にした映画は、他の文芸大作同様私たちの好みに合っていて、だいたい見に行く。勿論ここで「私たち」というのは私とつれあいのことである。
 
 私のつれあいの外国映画好きなことは人後におちず、それに勝るものは歌舞伎の片岡仁左衛門しかいない。
そのつれあいである、時々ドキッとするような駄洒落を言うから困る。それも、よく聞いていないと思わず嬉しくなるような○○○ギャグをさりげなく発する。
 
 私のことを、あの渋いゲーリー・オールドマンであると言った時はわが耳を疑った。オレもとうとうベートーヴェンのように耳が悪くなったのではないか。満更でもなさそうな顔をしたら、つれあいは言った、「聞き間違えたでしょう」と。「エッ!」と聞き返した私に彼女はゆっくりとこう言った。
「ゲイリー・オールドマンなんて言ってないよ、オールド・ゲーリーマンと言ったのよ」。
 
 なんと、そのとき私は年老いたゲリ気味の男なのであった。当たっているだけに文句も言えず、アハハッと笑うばかりでありました。
 

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