いままでも いまも これからも 夢の中で思い出をつくっているような気がします
 
夢からさめたら一体どうなるのでしょうか
 
ロビンフッズ・ベイ
ロビンフッズ・ベイ
 
イングランド北部のウイットビーからほど近い所にロビンフッズベイがあります。背景の海は北海で、海岸に降りると、この画像からは想像できない風の冷たさ。季節は夏、風は真冬でした。日本的観光地の感覚からは遠く、小さな町には一軒のレストランもありません。でも、そこがいいんです。ヨークからここまで来て、この写真が撮れてよかった!
サントリーニ島
サントリーニ島
 
10月末のエーゲ海サントリーニの町に暮色が忍び寄っています。
チューリッヒから来た女の子ふたりの貸別荘から撮影しました。
 
パラシオ・デ・セテアイス
パラシオ・デ・セテアイス
 
ポルトガル・シントラには貴族や資産家の豪華な館(Quinta=キンタ)が散在しています。その中でも、この館はホテルになっていて、幸運な宿泊客を受け入れています。
 
「セテアイス」とは「Sete=七つ Ais=ため息」の意。「七つのため息の宮殿」です。
19世紀初頭、ポルトガルに援軍を送った英国とナポレオン軍との間に締結された「シントラ協定」(1808年8月30日)がポルトガルと英国に不利な協定で、ポルトガルからのフランス軍の撤退を英国の船舶で行うことが明記され、撤退後もフランスの非戦闘員はポルトガルにとどまってもよいことが記されていました。
 
さらに、ポルトガル人でフランス側に占領中味方し、売国奴的行為を行った者たちの安全を英国軍の名の下に保証するということまで盛り込まれていました。すっかり落胆した高官が7回ため息をついたとか。
 
 これに憤慨した英国民は多く、なかでもワーズワースは「シントラ協定論」を発行、シントラ協定をクソミソにこきおろし、ポルトガル国民の抵抗(フランスに対する)を絶賛、また、英国の将軍・ウェリントンを評価しつつ、シントラ協定のいいかげんさを厳しく批判しました。民族の独立なしに真の自由なしというワーズワースの真情が吐露されており、ロマン主義の面目躍如たるものを感じます。
 
 パラシオ・デ・セテアイスの画像は「ホテル紀行U」(下のバナー)の「Palacio De Seteais」にもあります。
 
ペナ宮
ペナ宮
 
上の「パラシオ・デ・セテアイス」から撮影したペナ宮。大航海時代のポルトガルの栄華をしのばせる光景です。
 
  シントラとペナ宮に関しては「リスボン追想U」(下のバナー)をご参照ください 
 
ブルーモスク
ブルーモスク
 
アフガニスタンのマザリシャリフにある「ブルーモスク」。15世紀に建てられたイスラーム美術の傑作。私はこのブルーモスクが世界中の建造物中もっとも美しいと思っています。ノイシュバンシュタイン城やアルハンブラ宮殿、タージマハールでさえ、この美しさの前では顔色なからしむのではないでしょうか。
ブルーモスクにつきましては「エッセイ」の「旅人の玉座1〜2」をお読み下されば幸いです。この写真を撮影したのは1972年10月のことですが、私にとってはきのうのことなのです。
ローメル・バッド
ローメル・バッド
 
ドイツ・シュバルツヴァルト(黒い森)のバーデン・ヴァイラーの隠れ家的ホテル。ここで3日間滞在できたのは幸運というべきかもしれません。黒い森の中にひっそりと佇んでいます。「ヴォーグ誌」によると、「黒い森に18世紀の面影をいまにのこす夢のホテル。ここに宿泊できる人に嫉妬の念を禁じえない」とありました。町の教会の鐘撞き堂から望遠レンズで撮りました。
ステンドグラス
ステンドグラス
 
スペイン・マヨルカ島・パルマの大聖堂の内部。
ちょうど夕陽が差し込んできて、思わぬシャッター
チャンスに恵まれました。
バルデモサ
バルデモサ
 
スペイン・マヨルカ島のバルデモサは、ジョルジュ・サンドとF・ショパンが滞在した貧村としてその名を知られています。1838〜39年の冬、ショパンはバルデモサのカルトゥハ修道院で過ごしました。その時、村人から白い眼で見られたことが、ジョルジュ・サンドの「マヨルカの冬」を生むきっかけとなったのかもしれません。女は思い出を、男は音楽(「雨だれ」)を編んだのです。
「キングサリ」のアーチ
「キングサリ」のアーチ
 
北ウェールズの避暑地・Llandudno(スランドゥドゥノ)から約10qに「ボドナント・ガーデン」(Bodnant Gardens)があり、そこの目玉。キンギサリ=Laburnumは6月初旬が見頃です。こんなに美しい場所なのに人の姿がないというのも、いかにもウェールズらしいですね。
河の中の花
河の中の花
 
英国・コッツウォルズのバイブリー村をさやさやと流れるコルン川。こういうセンス、いいですねえ。