2001-06-22 Friday
昭和43年10月3日(2)
 
 あらためていうようなことではないと思うがナマはいい。相手との一体感は生ならではのものであるし、吸う息、吐く息が直につたわってくるし、声質の微妙な変化で相手の気持ちが読めることもある。肉声とはよくいったものである。
 
 赤ちゃんがテレビやパソコンの画面を通してことばや躾を学習していくとしたら、そう思うだけで私は背筋が寒くなる。だいたい「躾」などということば自体が、「身」の横に「美」と書き、いかにも人から直接、生で美なるものを教えてもらうという意味あいを示唆しているではないか。躾とは身にそなわる美なのである。
 
 講演では相手もこちらも赤ちゃんではないから、愛撫したりされたりということはよもやあるまいが、まあ、それに近い事はなくもないような気もする。そこも生の曰くいいがたいよさなのかもしれない、分かる人には分かるだろう。
 
 三島は講演の名人である。名人といってわるければ天才である。その類いまれな才能はひとり突出している。三島の話術は講演をこころざす者すべての手本である。
私は自分でこの雑文を書き出しながらもう待てない。もう待てない、どうにもたまらないほど三島由紀夫の講演をもう一度聴きたいとこころから望んでいる。私自身の語り口の雲行きが怪しくなってくるのを承知でいうが、この稿(1)にあげた何人かの語り手は、いわば前座、失礼は百も知っての上でそう断言する。
 
 かの大小林(小林秀雄。座談、講演の巨匠と評価されている)も三島の前では顔色なからしむ。それは、三島には小林秀雄のような押しつけがましさがないからという理由にのみよるものではない。三島は聴衆のこころを的確に読む。読んだ上で、彼らの息を自分の息に合わせる。これはもう神がかりといってよいほどで、この技巧を三島は歌舞伎から会得したと私は思っている。
 
 存在するのである歌舞伎役者には、客の息を俊敏に感じ取り、客の息を自分の息に合わせ、客のこころをとりこにしてしまう千両役者が。
昭和43年10月3日夜、早稲田大学・大隈講堂で、三島のティーチ・インの幕があがった。前座は五木寛之、野坂昭如のご両人。五木、野坂のふたりが前座などと、いまから考えると、贅沢というか鷹揚というか、古き良き時代でした。
 
 面白かったのは、ふたりともまるで申し合わせたかのように白の上下を身につけ、特に野坂さんなどは、胸ポケットに深紅のバラ。真っ白の帽子を斜にかぶり、さながら宝塚の男役(奥さんは元・宝塚のトップ・スター)。どうせやるなら、バラを口にくわえて登場すればよかったのに、隣の友人Hにそう言ったら、Hはこう言い返した。「壇上からバラを投げりゃもっとよかったのに」。
 
 五木さんは緊張しすぎたせいかガチガチで、いってることが支離滅裂、いまの落ちついた大物ぶりとは大違い、あのとき、「蒼ざめた馬」は五木さんの作品ではなく、五木さん自身だった。そんな時代が誰にでもあるのです。
野坂さんにいたっては、事前に一杯やってきたのか、完全にぶっ飛んでしまって、ロリるはラレるは、歌でも歌いだしかねない様子、おそらくご本人も何をしゃべったか憶えていないと思う。当時の彼らにも、当時の早稲田にも、そうならざるをえないようなダイナミズム、情念のごとき何かが存在した。
 
                   (つづく)
2001-06-19 Tuesday
昭和43年10月3日(1)
 
 小林秀雄、三島由紀夫、瀬戸内寂聴、五木寛之、野坂昭如、小塩節、渡辺保、市川猿之助、吉村作治というと何を連想されるだろう。
 
 上記には小説家、評論家が多いけれど、歌舞伎役者もいる。この方たちは私が聴いた講演の中で、よきにつけあしきにつけ強く脳裡にのこっているconversationalistである。
ほとんどは通常の講演会で聴いたが、三島、五木、野坂はティーチ・イン、瀬戸内さんは「千万の会」(茂山千作と野村万蔵、万作の狂言の会)の前おき話として聴いた。
他にも講演は数多く聴きに行ったが、いま現在書くに値する講演はないように思う。そのうち記憶がよみがえってきたら書くかもしれないが、たぶんそれは叶わない。
 
 それぞれにそれぞれの違った個性や語り口があるが、90分とか120分に及ぶ話であるから、おのずと優劣というか出来不出来と、面白い面白くないの差が出るのはいたしかたない。私にとってよい講演とは、時間のたつのを忘れさせてくれる講演である。100分、120分が、わずか15分くらいに感じてしまうような講演。
 
 おもしろい講演とは、いうまでもなく話し手の魅力に依るところ大なるものがあって、まず話し手は頭脳明晰でなければならない。90〜120分の間に同じ事を二度いうことなど論外(意図して繰り返す場合は別)、それは話し手の老化現象だからである。
 
 話し手は机上のチマチマした話をしてはならない。サンマや爆笑問題のようなお笑いの世界の人ではないのだから、楽屋話のごとき作り話は御法度である。みえみえの馬鹿話は、若い人の笑いはとれても聴き巧者の笑いはとれない。自分自身の豊富な経験がものをいうのである。 
 
 聴き巧者は、軽薄な笑いにはあきあきしているし、わざわざ講演会場まで時間をかけて足を運んだのだから、ちっとはマシな話をしろよという暗黙の要求もある。であるからして、話し手もそのことを暗黙裡に了解していなければならない。それを承知で聴き手の納得する笑いをとらねばならないのだ。
 
 場当たり的な講演は最初からつまらない。おもしろい映画は最初の3分で面白さの予感がある。巧妙かつ緻密に計算されている。映画もB級になると、その計算ができていない。
よい講演はメリハリがきいているばかりでなく、キレがあって眺めがよい。眺めがよいというのは、平たくいうと分かりやすいということだ。また仮にそれが高尚な内容であったとしても、高尚であることをオブラートに包んで、誰にでも理解できるような話にせねばならない。相手に分かってもらえなければ講演は大失敗である。
 
 そして、よい講演は抜群のテンポの良さと間を兼ね備えていなければならない。90分とか120分に及ぶのである、途中で聴き手が眠くなるような、または窮屈で息がつまるような類のものは不可である。ほどよい「間」という空間を創出しつつ、聴き手の飽きないよう一気呵成に時間を切り取る術を心得ていなければならないのである。
    
                  (つづく)
2001-06-03 Sunday
なだ万の人々
 
 大阪・ロイヤルホテル(現リーガロイヤル)B1F「なだ万」で毎月夕食会をしていたことがあった。もう二十数年前になるだろうか、あの頃すでに中年または熟年であった仲居さんたちはいまどうしているのだろう。
 
 当時まだほんの新人の、おでこの広い仲居さん(今風にいうとサービス係あるいは接客係)は梅田・阪急百貨店の地下に「なだ万厨房」がオープンした時やって来て、当日花を添えに来ていた元・花板の孝明さん(中村孝明)に軽口を飛ばしていた。
 
  孝明さんは文字通り「なだ万」の花板だった。この人の吸い物を越えるものにはいまだお目にかかっていない。数年その絶品のお吸い物を味わってきたが、ある日のこと、吸い物がいつもの味と異なっていた。
仲居頭が時折顔を出してはわれわれの、特に私の表情をうかがう素振りをみせた。
 
 仲居頭はおもむろに口を開いて言った。
「花板はシンガポールに出向しまして、お吸い物、いかがでした?」
それはもう、どういうこたえが返ってくるか分かりすぎるほど分かっている人の、誰をも仕留められる吹き矢であった。
 
 勿論私は口ではこたえなかった。口の代わりに目でこたえた。
その仲居頭もいまどうしているのだろう。私たちが月参しはじめた頃、ずいぶん風変わりな家族と思ったに相違ない。
正月は従業員全員に菓子の詰め合わせを配る。その菓子類も、京都のものではなく、わざわざ九州から取り寄せた菓子である。従業員といっても、非番の人の分まで用意すると三十人以上になる。
 
 私の母はそういう事をするのが好きな人だった。なだ万と私たちの関係は十三年続いた。
 
 家族で頻繁に香港に行っていた頃、九龍サイドのシャングリラ・ホテルのB2Fに「なだ万香港店」がオープンし、香港に行く度に必ず一回は夕食を食べに行った。その頃の支配人はOさんという人で、なだ万・大阪東急ホテル店の初代支配人。
 
 このOさんはその後、東京ディズニーランド近くの「シェラトン・グランドベイ」ホテル内の「なだ万」支配人を経て、現在は西日本統括にまで出世した。Oさんにはそれだけの力があった。香港にせよ舞浜にせよ、オープン店をものの見事に成功に導いた人である。
 
 香港では、夕食後私たち全員に必ず抹茶アイスクリームをサービスしてくださった。全員というのは8〜15名である。
 
Oさんの「(い)らっしゃいませぇ〜!!」という威勢のいい挨拶は、いまなおその独特の声の響きとともに私の耳にのこっている。
「い」を括弧付けにしたのは、ほとんど聞こえないからであり、またその聞こえないのが威勢のよさの真骨頂でもあった。
 
 あまり大きな声では言えないが、「なだ万」の味は落ちた。昔でも支店によってはひどいものを出すところ(名古屋東急ホテル店、香港アイランド・シャングリラ店、孝明さんのいなくなったシンガポール店など)はあった。しかし、ここ最近の凋落ぶりには目を覆うものがある。
往時の味を知る者にとってこれは由々しき一大事。昔の仲居さんや仲居頭もこの事実を知ったら、さぞ嘆き悲しむに違いない。私の様子をうかがいに来た仲居頭などは、きっと奥に隠れて出てこないのではあるまいか。
 
 大阪では東急ホテル店のS板長が頑張ってはいるが、Sさんの休みの日の味は保証の限りではない。一日も早く往時に近い味を取り戻すよう、若い調理人の研鑽を願ってやまない。そう思っているオールド・ファンは他にもおおぜいいるはずである。
 

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