大阪・ロイヤルホテル(現リーガロイヤル)B1F「なだ万」で毎月夕食会をしていたことがあった。もう二十数年前になるだろうか、あの頃すでに中年または熟年であった仲居さんたちはいまどうしているのだろう。
当時まだほんの新人の、おでこの広い仲居さん(今風にいうとサービス係あるいは接客係)は梅田・阪急百貨店の地下に「なだ万厨房」がオープンした時やって来て、当日花を添えに来ていた元・花板の孝明さん(中村孝明)に軽口を飛ばしていた。
孝明さんは文字通り「なだ万」の花板だった。この人の吸い物を越えるものにはいまだお目にかかっていない。数年その絶品のお吸い物を味わってきたが、ある日のこと、吸い物がいつもの味と異なっていた。
仲居頭が時折顔を出してはわれわれの、特に私の表情をうかがう素振りをみせた。
仲居頭はおもむろに口を開いて言った。
「花板はシンガポールに出向しまして、お吸い物、いかがでした?」
それはもう、どういうこたえが返ってくるか分かりすぎるほど分かっている人の、誰をも仕留められる吹き矢であった。
勿論私は口ではこたえなかった。口の代わりに目でこたえた。
その仲居頭もいまどうしているのだろう。私たちが月参しはじめた頃、ずいぶん風変わりな家族と思ったに相違ない。
正月は従業員全員に菓子の詰め合わせを配る。その菓子類も、京都のものではなく、わざわざ九州から取り寄せた菓子である。従業員といっても、非番の人の分まで用意すると三十人以上になる。
私の母はそういう事をするのが好きな人だった。なだ万と私たちの関係は十三年続いた。
家族で頻繁に香港に行っていた頃、九龍サイドのシャングリラ・ホテルのB2Fに「なだ万香港店」がオープンし、香港に行く度に必ず一回は夕食を食べに行った。その頃の支配人はOさんという人で、なだ万・大阪東急ホテル店の初代支配人。
このOさんはその後、東京ディズニーランド近くの「シェラトン・グランドベイ」ホテル内の「なだ万」支配人を経て、現在は西日本統括にまで出世した。Oさんにはそれだけの力があった。香港にせよ舞浜にせよ、オープン店をものの見事に成功に導いた人である。
香港では、夕食後私たち全員に必ず抹茶アイスクリームをサービスしてくださった。全員というのは8〜15名である。
Oさんの「(い)らっしゃいませぇ〜!!」という威勢のいい挨拶は、いまなおその独特の声の響きとともに私の耳にのこっている。
「い」を括弧付けにしたのは、ほとんど聞こえないからであり、またその聞こえないのが威勢のよさの真骨頂でもあった。
あまり大きな声では言えないが、「なだ万」の味は落ちた。昔でも支店によってはひどいものを出すところ(名古屋東急ホテル店、香港アイランド・シャングリラ店、孝明さんのいなくなったシンガポール店など)はあった。しかし、ここ最近の凋落ぶりには目を覆うものがある。
往時の味を知る者にとってこれは由々しき一大事。昔の仲居さんや仲居頭もこの事実を知ったら、さぞ嘆き悲しむに違いない。私の様子をうかがいに来た仲居頭などは、きっと奥に隠れて出てこないのではあるまいか。
大阪では東急ホテル店のS板長が頑張ってはいるが、Sさんの休みの日の味は保証の限りではない。一日も早く往時に近い味を取り戻すよう、若い調理人の研鑽を願ってやまない。そう思っているオールド・ファンは他にもおおぜいいるはずである。
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