2001-04-24 Tuesday
さらば怪傑黒頭巾
 
 東映時代劇全盛時代、両御大といわれた市川右太衛門、片岡千恵蔵とは一線を画した俳優に大友柳太朗という人がいた。
かれのオハコは丹下左膳、むっつり右門、そして怪傑黒頭巾。中でも、怪傑黒頭巾は子供の夢を育み、また日頃の鬱憤を大いに発散させてくれたものであった。
 
 月光仮面と同じで正義の味方。弱者が困っているとき、命の危険にさらされたとき、白馬にまたがり颯爽とあらわれる。怪傑黒頭巾がかっこ良かったのは、イメージや風貌だけではない。両手に二丁拳銃を持っているのである。
まるで西部劇、でも、子供にはそれがまたたまらなかった。チャンバラだけではない洋物のバタくささ、刀では間に合わない急場も拳銃なら救えるのです。
 
 われわれの世代は結構この手のヒーローに弱い。弱いというのは、つまり、一種の憧れですな、自分の及ばぬ理想郷、それをスクリーンの上で実現してくれるのですから、夢中にならないわけがない。仕事にも付き合いにも、政治にでさえ、この類のスターをわれわれは潜在的に求めているのではありますまいか。
 
 大友柳太朗は晩年、伊丹十三の「たんぽぽ」というラーメンの味の追求に奔走する男たちを描いた映画に出演しています。
また、倉本聡の「北の国から」のじゅんの親友(自衛隊に入隊した男の子)の祖父役を見事に演じています。その少し前、大友柳太朗とわたしのつれあいは大阪空港(伊丹)で一度会って、言葉をかわしています。
 
 その時つれあいは日本航空のグランド業務中で、カウンターに大友柳太朗があらわれチェック・インしたのです。とてもやさしく感じのいい方だったと、つれあいは今でも時々思い出しては語ってくれます。芸能人の中には、とても無礼で常識のない人も多かったとも言ってましたが。
 
 その数年後、大友柳太朗は自宅マンションの屋上から投身自殺しました。自殺の原因など詮索したくもありませんが、巷間伝えられるところによると、せりふの憶えが悪くなったと、周囲のごく親しい人に洩らしていたらしいのです。まじめな、あまりもにまじめな俳優さんだったのではないでしょうか。
 
 そして、それからしばらく経って、豊かな才能に恵まれた「たんぽぽ」の監督・伊丹十三もマンションから身を投げて死んでしまいました。
2001-04-13 Friday
アポテケ
 
 まだ若いつもりであるし、現に若いのであるが、もっと若い頃から悩まされ続けていることがある。まず耳が悪い。これは語学をやる上で致命的な欠陥。会話時、相手の言っていることの聞き分けが耳のせいで困難をきわめるのだ。
大きな声でハッキリ言ってもらえれば良いが、早口で、しかも聞き取りにくい発音で喋られたら、もうお手上げ。もう一度ゆっくり言ってくださいとはいえても、おたく訛っていますよとは口が裂けてもいえません。
 
 次に頭が……、というと、本気にする人がいそうなのでこれはよす。10年ほど前「一過性脳虚血症」というのに罹り、丸1年間通院した事がある。
 
 96年9月末、わたしとつれあいはまずプラハに5日滞在し、それからウィーンに移動した。
ウィーン滞在二日間はポカポカ陽気に恵まれ身体も快調だったのだが、三日目は小雨の降る肌寒い日で、なんかイヤな予感がしていた。
翌日は雨こそ降らなかったけれど、一日中雲が狂人の額のように低くたれこめ、10月初旬にしては日中の最高気温が5度と真冬の寒さ。
 
 ウィーンには四日間滞在し、鉄道でザルツブルクに移動した。
ザルツブルクのホテルに午後1時半頃チェックインして、すぐさま薬局探しにとりかかった。
もうこれ以上放っぱらかしにはできない。事は急を要する。
旅行に出るとき常備薬として必ず持ってきた薬を、そのとき初めて忘れたのである、最初に「若い頃から悩まされ続けている」と記した持病の薬を。
 
 さあこれが大変、ドラッグストアもメディスンも通じない。さらに困ったことに、頼りにしていたわたしのつれあいが「薬局」をドイツ語でどういうのか忘れたという。
 
 ザルツブルクの目抜き通り、ゲトライド・ガッセを行ったり来たり、地元の人らしい通行人に尋ねたがラチがあかない。
仕方なくホテルに戻ってコンシェルジュに訊いた。コンシェルジュなら英語が通じるから。
 
 ようやくだいたいの場所が分かり、教わったとおりに行ってみた。人を馬鹿にするにもホドがある。
ホテルから50bくらいのところにあった。その前を何回往復したことか。
わたしのつれあいは、早く市内観光したいといいながら、そこいら中を走り回ってくれた。
 
 しかし、その店構えといいウィンドウのディスプレイといい、どう見ても薬局にはみえない。欲目にみても、趣味の店かアンティークショップ。
飾り窓には、美しいアートフラワーが品よく鎮座ましましていただけ。それ以外は何もなし。まあ、知らないというのはこういうことでありましょう。
 
 そして薬局の中でも一悶着。
わたしの持病をドイツ語で何というのかわからない。
英語で言っても通じない。
バッグに忍ばせた和独辞典にも載っていない。ホトホト困った。
お尻に手を当てたり、人差し指と中指の間から親指を出して、相手の目の前に突き出したらニンマリ笑われた。ほかの意味、つまりエッチな、そのものズバリのアレに思われたのである。ジェスチュアもよしあしです。
 
 「やまいだれに TEMPLE じゃ!」と叫びたくなった。無駄とは分かっていても。
すったもんだの挙げ句、奥から分厚い英独辞典を持参してきた。あるならサッサと持ってきなさい、サッサと。それでようやくケリがつきました。
 
 Hemoでした、ドイツ語で。こんな簡単な、しかも日本語化している言葉なのに、どうして思い出せなかったのかと歯ぎしりしても後の祭り。この日の市内観光は結局、薬局探しに明け暮れた。
薬局はドイツ語でApotheke(アポテケ)、死んでも忘れません。
 
2001-04-12 Thursday
アホ、ビール出せん!
 
 このホームページを開設して以来つたないながらも文章めいたものを書いていますが、実は文章を書くのは約8年ぶりなのです。平成5年初夏に最後のまとまった文章を書いたあと筆を折り、公私ともに一切の文を書かなくなりました。理由は自分でもよく分かりません。手紙や絵はがきを書くのは好きなほうだったと思います、が、文章を書くのが好きだったわけではありませんでした。
 
 それがこのようにHP上に結構書いているのだから、何がなんだか自分でも?なのです。8年も書いていないと歌を忘れたカナリア状態、言葉が出てこない。
 「インド」新設準備をしていたときも「思わせぶりな」という言葉がどうしても出てこず、仕方なしに「媚」と書きました。「カジュラホ」のところです。書き換えずにそのままにしています。
 
 「歌舞伎評判記」の「延寿太夫の声」云々で、「舞台そっちのけで聞き入ってしまうほどの声」と書きたいところを、「そっちのけ」という言葉が思い出せず、別の言葉でお茶を濁しました。
一事が万事この調子でPCに向かうたびにもどかしい思いをしています。いまも「もどかしい」が出てくれてホッとしています。8年の空白は余りに大きい。単語が出ないと頭もウニ状態ですしね。いや、ウニ状態だから出てこないのか。
 
 何年か前にオーストリアを旅したとき、しよっちゅう耳にする言葉に「アホ、ビール出せん」というのがありました。オーストリアはドイツ語です。挨拶程度の単語は日本を出国する前に若干自習したのですが、アホ、ビール出せんはわからない。(わたし耳が悪い)
わたしのつれあいは学校の第二外国語にドイツ語を取っていたから、訊けばよいのでしょうが、自習した手前があるので訊けない。
 
 オーストリアに着いて二日ほど悶々としていたのですが、ようやく分かりました。「アホ、ビール出せん」は「アウフ・ヴィーダーゼーエン」で、つまり「さよなら」。しょっちゅう使うわけです。とすれば、わたしの頭はその頃からウニであったのかもしれません。頭が普通に働いて、言葉もすぐに思い浮かぶよう、誰か魔法の粉でもふりかけてはもらえないでしょうか。

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