2001-04-08 Sunday
チンドン屋
 
 チンドン屋といっても、いまの若い人には馴染みがないか、あっても薄いだろう。昭和40年くらいまでの町の年中風物詩のひとつで、奇天烈(きてれつ)ないでたちで町を練り歩く音楽隊。
 
 町にサーカスが来たときや、パチンコ屋の新装開店時の宣伝マンとウーマン。鐘や太鼓、サキソフォンやクラリネットを奏でながら、足をステップして歩く。女はたいがい着物姿に三味線をもち編笠をかぶっている。いわゆる鳥追(とりおい)、女太夫。江戸時代にはこの鳥追の中にたいそうな美人もいたとかで、記録にも残っているほどであるが、女チンドン屋は編笠姿ゆえ顔は見えない。ある夏の日、編笠を取った女を見ることができたが、これがシワだらけのおばさん、ガッカリしました。
 
 まあ、それがチンドン屋であるが、中にはサービス精神旺盛なのがいて、道中で血矢夢馬羅(ちゃんばら)をしてくれる人もいた。
故・東千代之介が顧問格で血矢夢馬羅新聞を出していたこともあった。全盛時代の東映時代劇を彷彿させて面白かった。
このちゃんばらの上手なチンドン屋に巡り会うのが難しい。下手な立ち回りは目の毒、見ちゃおれない。なにしろこっちは東映時代劇の映画館にタダで入っては、同じものを繰り返し何度も見ているから目が肥えている。
 
 ところが、中にはうまいのがいる。それもそのはず、近所の年寄りの話では、なんでも元東映大部屋の斬られ役で、今回斬り役にまわってハッスル(古いコトバ)したらしい。
子供の多くはこのチンドン屋のあとをついて行く、まるでハーメルンの笛吹男。どこまでもついて行くと、見慣れた風景が一変し、一体そこが何処なのか判別できなくなることもありました。そうして子供は自分のテリトリーを広げていくのです。可愛い子には旅をさせよなんて言いますが、子供は誰言われるわけでもなくチャンと小さな旅をしている。
 
 これ、子供の時だけかと思ったら、そうでもなかった。99年6月、英国のチェスターのお祭りで、われわれ夫婦は最後までお祭りの行列にくっついて歩きました。えんえん2時間も。最後までついて行ったのは私たちだけ。きっとふたりとも「チンドン屋」の癖が抜けてなかったのだと思います。
2001-04-03 Tuesday
「たとえば」
 
 わたしはこの「たとえば」がどうにもイヤである。
テレビのトーク番組、ここで普通は“たとえば”と書くところであろうが、わたしは書かない、、書かずに「サンディ・プロジェクト」や「朝まで生テレビ」などにコメンティターとして登場してくる人の多くは、と書く。
彼らはこの「たとえば」をやたらと多用する。ああまで「たとえば」を使用せずとも話は展開するし、使わないからメリハリが損なわれるというものでもない。なのに使う。わたしにはその理由が理解できない。口癖なのだろうかとひとり嘆息するだけである。
 
 1995年3月20日夕刻、わたしはつれあいと香港から帰国した。この年は阪神大震災の年なのでよく憶えている。
関空から南海電車で難波まで来て、夕刊を読みたかったので売店に足をすすめた。
夕刊は全くなかった。スポーツ紙すら一部もなかった。
地下鉄御堂筋線・難波駅でも同様。はては阪急・梅田駅のすべての売店でも夕刊は売り切れていた。
 
 すでに難波駅で変だなと思っていたから、地下鉄の車内で夕刊を開いている人の紙面を覗き込んだ。
「東京の地下鉄構内で毒ガス発生○人死亡」という大見出しが載っていた。
後に「地下鉄サリン事件」と呼ばれた大事件である。
 
 この首謀者とされる「オウム真理教」の麻原某が、上記のテレビ番組、その他のインタビューで盛んに「たとえば」を使用していた。
この麻原某がテレビに初めて「たとえば」を持ち込んだのではないかと錯覚するくらい「たとえば」、「たとえば」を繰り返した。あの声がわたしの耳にいまだに焼き付いているのだ。テレビで誰かが「たとえば」と言うと、イヤな顔と声を思い出すのである。
 
2001-03-25 Sunday
キティちゃん
 
 その女の子は当時二歳と六ヶ月くらいでした。縁があってお母さんと一緒に短期間関西へ来ることになりました。元気で明るく可愛いから周りの誰からも愛されていましたが、ある日小生の集合住宅へママともども遊びに来たことがあります。
その頃は食欲旺盛で、小生のつれあいの作った手料理を大人一人分ペロリと平らげ、好物のなめこのみそ汁も三杯お代わりしたほどです。
 
 小さい頃から周囲に料理の得意な作り手のいたせいか、口が肥えていて味の良いものはとにかくよく食べました。今はもう年頃の女の子に成長しているので、食べ物のことは控えましょう。
 
 この可愛い女の子は小学校の途中まで道東の小さな町に住んでいて、まだ保育所に通っていた頃小生の出向先の支部によく遊びに来ていました。大勢の人達が集まるので、座布団が百枚ほどあったのですが、その座布団を使って小生のつれあいとお家遊びをしていました。座布団で子供部屋、寝室、廊下、トイレ、お風呂をつくるのです。廊下作りが一番簡単、ただ並べるだけですからね。トイレの近くまで行くと、臭くもないのに鼻をつまんでいましたね。
 
 土地が広かったので、お花畑や野菜畑、果物畑、山桜や一位の木などを作り育てる人も何人かいらした。そんなある初夏の日、苺の収穫が近づいてまいりまして、苺の様子をその女の子、小生、小生のつれあいの三人で見に行った。艶のよい赤い色をした苺がそこかしこに実っていましてね、作り手の斉藤さんというおばあさんに無断で味見しようと話がまとまり早速食べてみた。
ひと口食べたとき、苺のなんともよい芳醇な香りと甘酸っぱい味が広がって、幸せ一杯でした。
 
 ふと傍らを見ますと、その女の子、口からあふれんばかりの苺を頬ばっていました。5,6個はあったのではないでしょうか、口の中に。
ふだんキティちゃんに似ているのですが、その時のまあるい頬と顔が、ますますキティちゃんそっくりで、可愛いやら可笑しいやらで今でもはっきり憶えています。

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