2004-02-29 Sunday
相性のよさが不幸を招く
 
 私たちがウソをいって遠ざけられることは多くないが、本当のことをいって遠ざけられることは多い。相性がよい者同士は反応も似るもので、同じことに賛成し、同じことに反対する。要するに賛否が一致するのである。相性がよくないと賛否の分かれることもあり、侃々諤々(かんかんがくがく)となるが、よほど頑迷な者はともかく、そうなることで自分のいたらない部分に気づいたり、切磋琢磨される。
 
 この世は批判にみちている。何人も批判の矢にさらされ、それを避けて通ることはできない。私たちはそういう認識の下で生活し、批判の不可避であることをいわば人生の前提、当然のこととして受容している。それが人生なのだからと。
それがいやなら、人跡未踏の峻険な山や深い森にこもって仙人生活をせねばならないだろう。人を遠ざけるのではなく、自ら遠ざかるのである。
 
 相性のよすぎる一方が人を排除すれば、他方もその人を排除する。苦手なもの、嫌いなものが一致するからである。「良薬口に苦し」ということわざは知っていても、論語読みの論語知らず、苦い味は遠ざける。そうして似たもの同士はときを過ごす。
類人猿が類人猿をのぞむ者と、類人猿であることをのぞまない者とに分かれ、類人猿であることをのぞまない者も、たいした理由もなく類人猿を選択した者もいるだろう。類人猿から人類への過渡期には各人それぞれの葛藤があったと思うのであるが、結局類人猿(の多く)は進化の途上で消滅した。
 
 何らかの意思か思し召しにより、進化をのぞんだ類人猿だけが人類になったと推測されるのであってみれば、進化をのぞまない者、あるいは進化に気づかない者は淘汰される。逆説的な言い方だが、淘汰とはそういうものであろうと私は思っている。
 
 むろん何が進化なのかという議論はある。進化はすなわち淘汰という考え方もある。しかし、この世の森羅万象ことごとく陰陽からなっている。淘汰がそのまま進化であるという考えを敷衍すれば、遺伝はすべて優性遺伝ということとなり、劣性遺伝子は進化の途上で消滅せざるをえなくなる。優劣あいまって生きとし生けるものが存在するという実情をみれば、まさしく陰陽は混在し、淘汰にも正と負が混沌として存在するのである。負の淘汰ということを最初に言い出したのはだれであったか。
 
 相性に話をもどせば、相性を支配している感情は理性にまさるという人もすくなからずいる。にもかかわらず、あるとき理性というか理力が彼らにはたらき、進化なるものがそれをのぞむ者に訪れたと思うのだ。このことに関してはいずれ別稿で書かねばならない。
だれのためにでもなく私自身のために。相性のよいもの同士はとかく自己の言動をかばい合うか正当化する。それは利害を同じくするもの同士でも同様である。相性のよさが進化を阻むのはそういう理由によるのである。
2003-10-12 Sunday
ナナカマド
 
 この季節になると必ず思い出すのは北海道の紅葉のたとえようのない美しさ雄大さである。東北の奥入瀬、裏磐梯、五色沼の紅葉もあるいは雄大、または美麗であり、厚みのある錦絵をみているようなゴージャスな気分にひたることができ、北海道と甲乙つけがたい趣だが、やはり、ニセコや大雪山系などの紅葉のほうがみごたえがあると思う。
 
 いや、みごたえという表現はそぐわない、心をゆさぶる度合いというか、心を揺り動かす強さが、北海道の紅葉のほうがより強烈なのである。
 
 私は一時札幌に住んでいたこともあり、道内の紅葉の名所はだいたい知っている。知ってはいるが、10月上旬〜10月中旬の見頃は内地で大きな行事があり、その準備に追われて、いつも見頃を逃していた。場所にもよるが、9月下旬は大雪山の五合目まで登らないと紅葉は早いし、10月中旬以降はすでに色がくすんでいる。もう冬なのだ。
 
 早めか遅めの紅葉はみているが、紅葉の盛りは道内にいないからみれなかった。
それが、1984年(昭和59年)10月は例年とちがった。道内の支部でのっぴきならない事件がおきた。そのため、恒例行事の終了した日の夜、私は急ぎ支部へと向かった。
かなしい事件だった。二度と経験したくない出来事だった。
 
 そんな心境のなか、札幌への帰路の途中、いつものコースを変更して回り道をした。紅葉をみるためではなかった、ただただ遠回りをしたかったのだ。国道を反対方向に北上し、稚内まではまだかなり遠かったが、これ以上北上すれば札幌での約束の刻限に間に合わなくなる、そういうギリギリの時間がいやおうなしにせまっていた。
 
 仕方がなかった。私は遠回りに見切りをつけ、国道を左折した。そして、10分は走ったろうか。目の前にこんもりした山が出現し、さらに山間の道をカーブすると、いきなり大きなドンブリ鉢を逆さまにしたような山がみえた。信じられない美しさだった。
この世のものとはとうてい思えなかった。壮大な大自然を背景に紅葉の山は忽然とあらわれたのだ。
 
 常緑樹の濃い緑、明るい緑のなかに、真っ赤な色、真っ黄色の紅葉が、まるで天上の神々がばかデカイ絵筆をとって描いたかのような。
 
 だれが言ったか忘れた、本当の赤はこの世にないなどと。それは、本当の赤をみていない人の嘆息のごときものである。あの赤をみて、私は母のことばを思い出していた。
それはもう70年ほど前の番屋のよもやま話で、道北や道東に冬の到来する時期、夜中に漁に出た漁師が早朝帰る頃、冷え切った身体を素早く温める黒砂糖の話であった。
 
 番屋(北海道のニシン漁師の宿泊小屋)では、漁師の嫁さんが大量のメシを炊く。携帯電話どころか、船内電話もなかった時代、彼女たちは船が無事に帰もどって来るかどうか、もどって来るとしたら何時何分頃か、独特の勘でわかるそうだ。それに合わせてメシを炊く。熱々のご飯、そしてご飯の中に入れる黒砂糖のかたまり。
 
 空腹で、しかも身体の芯まで冷えると、酒よりも、熱いみそ汁よりも、熱々のご飯に黒砂糖を入れて食べる、それが一番なのだ。ほかの何よりもそれが身体を瞬時に温める速攻効果がある。空腹感もいやされる。熱さでとろ〜っとなった黒砂糖とご飯の取り合わせが漁師の健康の源、番屋一の名物なのである。
 
 嫁さんは、亭主の身体がホクホクしてくるのを眺めながらナナカマドの実を食べる。わっちはこっちのほうがウマイとでも言いたげに。そうなのだ、食べ頃のナナカマドの実は、濃密すぎる甘さ、ぷるんとした口当たり、熟れ頃の女性もかなわぬジューシーさ、どこをとっても最高である。
 
 動物のなかで人間以上にグルメかもしれないと母がいっていた北海道のヒグマ、かれらは旬のものしか食さない、また、旬のものでも特別においしいもの‥脂ののった極上の銀サケ、選りすぐられたハチミツなど‥しか食指を動かさないというヒグマの大好物がナナカマドの実なのである。
 
 旬の、熟したナナカマドの実をカラスに横取りされないよう、ヒグマは細心の注意を払う。それでも横取りされたときは機嫌が悪くなり、八つ当たりして人間を襲うという。
漁師の女房はもしかしたらヒグマの化身かもしれない。食通で、体力旺盛で男勝り、大胆で頼り甲斐のある人が多い。
 
 ナナカマドの実は、あのときみた紅葉よりもっと赤い。両方を同時に見比べたわけではない、が、なんとなくそう思えるのだ。甘美な味と燃える色、ナナカマドは果実の王者であると思う。この世のものではない赤さであるが、ナナカマドはこの世のものである。本当の赤はこの世に存在するのである。
2002-11-16 Saturday
ろくでなし
 
 この国のオペラを除いた歌手で、生のステージへ聴きに行った唯一の歌手は、コーちゃんという愛称でシャンソンからポップスまで情感豊かに歌った越路吹雪だけだった。だからといって、何回も行ったわけではない、東京に住んでいた昭和40年代に一回、宝塚市に住み始めた昭和50年代初めに一回、計二回だけである。それぞれ日生劇場、宝塚大劇場だった。
 
 当時私は渋谷区鶯谷町の学生用集合住宅に1部屋借りており、そこから越路ご夫妻の住むマンションまで100bほどの距離にあり、私がたまに夜食を食べに行く24時間営業の小さなスナックで、越路吹雪は深夜時々スパゲティ・ナポリタンの出前を注文していた。ある日、いつも来るパートタイマーのお兄さんが急病とかで休んだ時、たまたま私がそこにいたので、マスターが「きょうのそれ、お勘定いらないから、越路さんとこまで出前たのまれてくれないかな」と言った。
 
 学生のこととて(今もたいして変わりないが)万年金欠病に罹っていた私に断る理由はなく、二つ返事で「いいですヨ、でも悪いですねぇ」と心にもないことをつぶやきながら、足はもう扉に向いていた。声低く言うのであるが、その店のナポリタンの味はいまひとつで、普段おいしいものを食べ慣れている越路吹雪が、いくら夜食とはいえ、本当にこれを食べているのだろうかと前々から不審を抱いていた。
 
 「越路さん、ゆで卵のスライスしたのが好きだから、いつも多めに入れるんだ」とマスターは言い、皿にラップをかけ、銀色の盆に乗せて私に渡した。深夜も午前2時を少し過ぎていたから、越路吹雪ではなく夫君の内藤法美さんが応対することも考えられるが、もしかしたら越路吹雪が出てくる可能性もないわけではない、こんな事だったら、あのパートのお兄さんに聞いておけばよかった、ここでマスターに聞くのもミーハーのようで聞くのは憚(はばか)られるし。
 
 インタホンを押したら、すぐにくぐもったしゃがれ声が何か言った。何を言ったのか聞き取れなかったが、スナックの名前をいったら重そうな玄関扉が音もなく開いた。そこに立っていたのは、まぎれもなく越路吹雪本人だった。チラっと私を見やって、「こんな時間なのに2回目の食事なのよ、リサイタルのときは」と低いしゃがれ声が言った。
 
 以前人がいっていたが、越路吹雪は日生劇場のリサイタルの初日、舞台の袖で出番を待っている時、足がガタガタふるえているのだそうである。何度舞台に上がっても、初日の足のふるえはなおらなかったという。越路吹雪ほどの大スターでも、極度の緊張感に襲われるのだという。舞台がはねてもしばらくは食欲もなく、自宅に帰ってようやく身体が元に戻るのだろうか。
 
 後で分かったことだが、越路吹雪はふだん素朴な味を好み、その嗜好の原点は家庭ではなく宝塚音楽学校時代に培われたのだという。事の真偽はというと、そう言った人はすでに鬼籍に入っているし、越路吹雪も天国住まいゆえ確かめようもないが、そう言われればそうなのかもしれないと思うほかない。
 
 彼女の持歌の中で今も時々聴きたいと思うのは、「サントワマミー」、「ラストダンスは私に」、「愛の讃歌」、「私の心はバイオリン」などであるが、どれか一曲といえば「ろくでなし」をおいてほかにない。「ろくでなし」と呼ばれる男は女からこよなく愛されている。それはもう妬ましいほどの愛され方である。その男はひどい奴で、女にひどいことを言う。にもかかわらず女の男への愛は不滅なのである。
 
 ひどいことは言いたくないがそういう男でありたい、そう思わない男がいたらお目にかかりたい。女に時々ひどいことを言うのは男の甘えであって、男は女の愛を確かめたいのだ。彼はそういう方法でしか女の愛を確かめられないのである。女は男の甘えを読み、心では許しつつ「ろくでなし」と返すのだ。越路吹雪の歌を聴いていると、「ろくでなし」がそういう歌であることが手に取るように分かる。
 
 私の弟は歌がうまい。兄の贔屓目ではなく実にうまい。弟は若かりし頃、「ヒデとロザンナ」と共演したこともある。数ある弟の持歌で私がもっとも良いと思うのが「ろくでなし」で、特に彼が前妻と一緒に歌った「ろくでなし」は今も忘れがたい。しかしながら、彼女はすでにこの世の人でなない。34歳という若さで不幸な死を遂げた。私は今も越路吹雪の「ろくでなし」を聴くたびに弟と彼女のことを思い出すのである。
 
 あの頃は古き良き時代だった。彼らも私も輝いていた。弟の嫁は今も34歳そのままの姿で私にほほえんでいる、声にならない声で弟をろくでなしと呼びながら…。

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