2001-10-03 Wednesday
パキスタンV
 
 パキスタンにかぎったことではないと思う。南アジアに共通することは、中東産油国のように天然資源による外貨獲得のないことである。パキスタンとて人口一億人をかかえる多民族国家であり、71年12月に勃発した第三次印パ戦争で東パキスタンへの権利を放棄し、東パキスタンは時を移さずバングラディシュとして独立した。
 
 パキスタン国民の大半はイスラム教徒であり、中東産油国のイスラム教徒と違うのは宗派のほかに、貧困という厄介なものを生まれた時から抱えていることである。貧困を厄介などと書くと、あらぬ誤解を受けるやもしれないが、教育が機会均等されているG7の国々とは事情を異にする。
貧しさゆえに義務教育が徹底完備しておらず、初等教育さえも満足に享受できない子供たちが町や村にあふれている。学校に行けない子供たちは何をしているのか、ご推察通り働いている、昼夜を問わず。
 
 カルカッタやニューデリーに行かれた方ならご承知のように、カラチの町の中心地は夕方ともなると、人々がどこからともなく集まり、オモチャ箱をひっくり返したような喧噪さを呈する。それは新宿や渋谷などの人混みとは比較にならない体のものである。
あえて共通点を探すとすれば、カラチも新宿も、さしたる目的もなく人がただ彷徨しているということであろう。相違点は、…カラチの人々はほとんど職がない。信じられない事に、失業はパキスタンでは大きな問題ではなく、失業率という概念がわれわれとは若干異なる。
 
 パキスタンの歴代大統領苦肉の策とでもいったらよいのであろうか、ありていに言うと、国民をいかに食べさせていくか、この一点が国策の最重要課題。かつては米国にも良い顔をし、ソ連にも良い顔をして援助を導き出した。八方美人であることは、いわばパキスタンの宿命である。
 
 カシミール問題をめぐってインドとの敵対関係が今なお続いていることからも、反インドを標榜する連中とも仲良くせねばならず、日本や米国に媚を売るのと同様、タリバンとも交友を結ぶ。国内のイスラム原理主義にも目配りせねばならないのだ。しかしながら、国際社会の潮流が米国主導となっている時代に、タリバンとの親交は強い逆風となる。
 
 早晩パキスタン政府は嘘でもタリバンと決別せねばなるまい。それが自国を守る愁眉の選択というものだろう。花をとるか実をとるか、国民の心の飢えを癒すか、肉体の飢えを癒すか、両方同時に選べないのは、パキスタン政府にとって痛恨の極みであろう。
中東産油国のような「持てる国」と、パキスタンのような「持たざる国」との相違は余りに大きい。
 
 
                  (つづく)
2001-09-30 Sunday
パキスタンU
 
 1971年10月9日夕刻、羽田を離陸したパキスタン航空PK763便の予定ルートは、マニラ〜バンコク〜カラチであった。バンコクまではスケジュール通りに運航したが、バンコクを立った763便はカラチに向かわず、ビルマ(現ミャンマー)のラングーンに着陸したのであった。
 
 ラングーンでバングラディシュの難民を多数機内に乗せ、763便はいったんバンコクに降りた。そこで燃料と機内食を補給したのであった。私の席の隣は空席だったが、ラングーンから搭乗して私の隣に座ったパキスタン人の説明によると、西パキスタン政府がパキスタン航空、国際赤十字社の協力を得て、バングラディシュから西パキスタンに移動する難民を乗せたとという事だった。
 
 難民の表情は一様に硬く、暗かった。一見しただけで、かれらの栄養状態を推しはかることができた。私の隣の席のパキスタン人は流暢な英語を話し、同じ日に二度寄ったバンコクのドムファン空港をセイロン(現スリランカ)のコロンボ空港だと言ってとぼけていた。私はこのパキスタン人が政府の要人であると直感した。
 
 機内では幼い子が泣きじゃくり、それを母親がなだめるという、どこにでもある風景が見られた。しかし、ほとんどの難民たちはサシで計ったように押し黙り、乗務員が運んできた機内食も口にしなかった。
かくして、午後10時半(現地時間)カラチに到着予定のPK763便は11時間遅延して、翌日午前9時半カラチに到着した。
 
                   (つづく)
 
2001-09-27 Thursday
パキスタンT
 
 こんな事でパキスタンテレビ(PTV)を聴取できるとは内心忸怩たる思いであるが、やはり懐かしさのほうが先に立つ。
NHK衛星放送はふだんPTVの扱いはなく、30年ほど前にカラチやラホールの安ホテルで見た、色あせてボケボケの映像とはえらい違いだなと思いつつ見ている。カラチからイスラマバードに首都が移転して間のない1971年、私はパキスタンを旅した。
 
 カラチとラホールのホテルの部屋にはテレビがあったが、ラワルピンディやペシャワールのホテルにはなかった。それにテレビがあるといっても、チャンネルはふたつしかなかったと記憶している。ニュース番組もめったとやらず、たまにやっても、ウルドゥー語訛りの英語が多く、随分聴きづらかったように思う。
にもかかわらずPTVが面白かったのは、ニュース番組の女性アシスタントがすこぶる肉感的で、インドのマトゥーラかカジュラホの美神彫刻を彷彿とさせる類のなまめかしさであったからである。今と違い当時のこととて、アジアでかくも見映えのいいニュース番組も珍しい事であった。
 
 それがなんと、今見ても30年前と変わらぬ見映えの良さではないか。あれは一体全体なんなのであろう、PTVの伝統でもあるまいが、あの妖艶さ、そして姉御的貫禄は特筆に値する。
書こうとしている事から相当横道にそれてしまったので元に戻すとしよう。パキスタンとは「平和な土地」という意味である。これを木に竹をつなぐという。初っ端から支離滅裂。
 
 それにしても、20代と50代とで何の進歩というか変化も見られないというのも、考えようによっては深刻な問題かもしれない。NHKで終日PTVの放送があれば、そういう側面からもわれわれ紳士の目にとまり、けっこうな人気番組になるかもしれないと、ひとり悦に入ってるバカもいるということである。
 
 くだけすぎたので、続きは次回に。

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