2005-03-01 Tuesday
ゆるすことの意味
 
 「苦労は買ってでもせよ」と母はいっていた。二十歳になったばかりの私は母の真意をはかりかねた。苦労した人のほうが苦労していない人よりずっと人のこころがわかる、それが、「苦労は買ってでもせよ」ということばなのかくらいにしか認識できていなかった。必要以外の苦労は避けたい、それが人情ではないか、そう考えていた。
なにか大きな出来事や試練を乗り越えたあと、母はきまってそのことばを口にした。世の中にこんな辛いことがあるのかと思うほかない苦労のあとでもそういった。大きな苦労にくらべれば小さな苦労はものの数ではない、母はそういいたかったのかもしれない。
私にしてみれば、そのときそのとき自分に立ちはだかった苦労がいちばん辛いと思っていた。受験生には受験勉強がつらいだろうし、失恋した者には失恋がこの世でもっとも辛い出来事にちがいない、金が必要なときに金がなければ、ほかの何よりも辛かろう。
 
 リア王はいう、『お前には、この荒れ狂う嵐にずぶ濡れになるのがよほどの大事と思えるようだな、お前にとってはそうかもしれぬ。しかし、もっと大きな病が心に根づいていれば、小さな病はさして苦にならぬ。(中略) 心に苦がなければ、体は苦痛に敏感だ。』
 
 「女学校でESS部長をしていたのに、シェイクスピアの戯曲どころか、単語もおおかた忘れた」と笑っていた母は、リア王は知っていたとしても、劇中のセリフの一つさえおぼえているわけはなかった。
心に苦があれば人は苦痛に鈍感だという話ではなく、苦を幾度となく乗り越えてきた者は、苦に対する免疫力をもっているということだろう、リア王のいわんとしていることは。苦労知らずの人は些細なこと、どうでもよいことに大騒ぎする。
 
 今年になってこんなことがあった。一年半ほど前に壮絶な喧嘩をした親子が仲直りしたのである。きっかけは子の入院だった。
重い病にかかって3ヶ月ほどの闘病生活をつづけていたその女性は、すでに社会人となっている息子や娘に、「何があったにせよ、おばあちゃんに知らせないのはおかしい。親子なんだから知らせるべきだ」といわれたそうだ。
許してもらえないと彼女は思い込んでいたのだったが、音信不通の老母に病気のことを報告しなければならないと思い、夫にそのむねを告げて連絡してもらった。
 
 はたして老母は一目散に見舞に来た。病室に入るやいなや母は子をゆるすといった。子の目はみるみるうちに涙でいっぱいになった。
とにかく派手な喧嘩であったから、親子間の溝は埋められないほど深いようにみえた。なに、双方がもともと屈折した心の持ち主だから、互いの愛情はありあまるほどであるにもかかわらず、仲直りするきっかけを失していたにすぎなかったのだ。
 
 上記の件で私の家内がおもしろいことをいった。「行き場をなくした鳥が一時的に別の場所へ迷い込んだだけ。老いた母はその日の来るのを待っていたと思う。」
家内は彼女にこうもいったそうだ、「いまのあなたのあるのはだれのおかげでしょう。お母さんをもっとたいせつにしてあげなさい」。
子は母にゆるされたことで救われた。救われたのは子だけではない、母もまたゆるしたことで救われたのだ。もしそのままゆるさず、どちらか一方が先に死ぬようなことがあったら、のこされた者は生涯苦しむこととなったろう。なぜゆるしてあげなかったのか、あるいは、親不孝したまま親はもういないと。
 
 苦労が「ゆるす心」を育むのである、生きているあいだにしか苦労はできない。死んでしまえば苦も楽もない、あるのは無限の闇か光であろうが、それも死んでみないとわからない、いや、死んでもわからないのかもしれない。
『人は人を生かすことで自らも生かされている』といった母のことばを私は突然思い出していた。『なごやかな心、相手をゆるす心をもつようこころがけなさい』ともいっていた。ゆるせるのは私たちが生きていてこそなのだ。
2004-12-19 Sunday
アルバム
 
 おさないころからアルバムを見るのが好きだった。
7歳のころには1歳の誕生日に父母、父方の祖父母といっしょに写真館で撮影したものや、カメラ好きの父が撮ったスナップ写真を見てはなつかしい思いにひたり、12歳のころには小学校低学年の遠足、父とのキャッチボール、餅つき、たき火、凧揚げなどの写真を見て、いいようのないなつかしさに陶然となった。数冊のアルバムを押し入れから引っぱりだし、何時間見てもあきることがなかった。
 
 とはいっても、いつもいつも自分のアルバムばかり見ていたのではない、ときには両親や祖父母のアルバムも見た。明治18年生まれの祖父は若いころ美男子であった。
名古屋からどういういきさつで祖母と鳥取に来て、戦中は宮崎県に疎開し、戦後は息子(私の父)をたよって関西に出てきたのか、寡黙すぎた祖父からは一言も聞くことはなかったが、母から仄聞するところによると、名古屋の料亭「井筒」の惣領であった祖父は、ひょんなことから醜い跡目相続に巻きこまれ、あまりの醜悪さに自ら身をひいて縁故をたよって鳥取に来たらしい。
 
 疎開先・宮崎の農家で農業をおぼえた祖父は、私たちと同居するようになってからも農業からはなれることはなかった。新築した建坪55坪の平屋より広い60坪の庭を父が祖父に提供したからである。
庭はほかにも裏庭が二つあって、父はそこに五葉松と竹、南天を植えた。祖父は庭にちいさな炭小屋とニワトリ小屋をつくり、イチジクやビワの木を植え、畑にはキャベツ、ダイコン、ホウレン草、タマネギ、細ネギ、トマト、キウリ、ナスビなどの野菜、さらにはモクレン、矢車草、ダリア、ヒマワリ、カンナ、グラジオラス、ケイトウ、曼珠沙華などの花を所狭しと栽培した。
 
 夏や秋に咲く色とりどりの花を背景に父が撮ってくれた写真は意外とすくなく、むしろ、花や葉に群がるちいさな虫やハエを食べにやって来るトンボを捕獲しようと躍起になっている私をどこかから撮ったものが多い。花は脇役ですらなくただの通行人、昆虫と私が主役を競いあっていた。
祖父のつくった畑は私に十分な収穫をもたらしてくれたように思う。夏野菜はつねに豊富で新鮮、トマト、キウリの甘さは出色だった。そして時期になると実をつけるビワ、イチジクの濃密な味。朝のタマゴは産みたて、ほとんど毎朝タマゴご飯を食べていたし、タマゴご飯のかわりにみそ汁にタマゴを落として食べたりもした。ニワトリ小屋からタマゴを運ぶのが私の日課であった。
 
 それよりもなによりも、祖父の畑は私に大きな果実をもたらした。なににもましてふくよかで、食べても食べても減ることのない思い出という果実を。
祖父の畑の思い出は、モチはモチ屋にまかせるのがいちばんと知らぬ顔の半兵衛を決めこんでいた父のおだやかな顔、近所の子供とチャンバラごっこをしているうちに、いつの間にか庭にまぎれ込み、畑の作物を踏みつけたときの祖父のがっかり顔、ダリア、カンナ、グラジオラスのあざやかな赤や朱色はいまなお脳裡にはっきり刻まれている。
 
 15歳のころ、すでに祖父母のすがたはなかったが、夏の新月の夜、一晩中畑にいた。空は満天の星あかり、大きなヒシャク形の北斗七星が頭上に横たわり、思い出にふけるにはうってつけの夜だった。星々は、いまはもういない畑の持ち主の貸し切りで、時間がたってもほんのすこししか動かなかった。どのくらい星をながめていたろうか、夜が白みはじめ、とうとう太陽が大きく息をし、その息で星たちはすがたを消していった。
 
 子供のころの思い出は格別である。子供のころに撮ってもらった写真もまた格別で、何十年たっても芳潤で馥郁たる香りが立ちのぼる。私は私自身のアルバムだけではなく、私のつれあいのアルバムも宝物のごとく大切にしている。つれあいのおさないころの写真のなかには私もいたのではないかと思うからだ。そう思えるほど身近な存在なのかもしれない。
 
 アルバムは私たちの内面をみつめる手助けをする。人生の岐路に立ったとき、人生に疲れ果てたとき、夫婦の仲がぎくしゃくしたとき、兄弟喧嘩をしているとき、私はアルバムを見る。つれあいにも見せる。アルバムのなかでおさない少女がほほえんでいる。なつかしい祖父母や両親、兄弟姉妹がいま生きている人のように話かける。私たちはなによりもそれでいやされる。そして、ふかい霧のはれたときの目のかがやきを取りもどすのである。

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