2001-03-18 Sunday
バーミヤンに想う 3
 
 バーミヤンの景観はほかの国にもある自然とその調和というものとは若干趣を異にしているように思う。そう思えるのは世界最大の石仏の存在に負うところが大きいが、バーミヤンの歴史的背景(マケドニヤのアレキサンダーの遠征、イスラームの侵入、蒙古との戦いなど)とそこに住む人々の存在にも負うところ大ではなかったか。
主に農業と放牧で生計を立て、素朴で人なつっこく、控えめにしてハニカミ屋。この住民たちが、あの神々しく美しい景観に溶け込んでいるのだ。
 
 子供の頃、たんぼや畑のあぜ道を小走りに駆けて小学校へ通っていたのだが、その田畑には朝早くから農作業に勤しんでいる年寄りが何人かいて、その中にバーミヤンで見た住人に似た年寄りがいたような気がするのである。
記憶は風にさらわれた砂塵のように散り散りにはじけてしまったが、あの懐かしい顔だけはとどまってくれたのだ。
2001-03-17 Saturday
バーミヤンに想う 2
 
 バーミヤンを訪れたのは1972年10月であった。
カブールを夜明け前に発ち、約10時間のロングドライブの果てにバーミヤンはその雄大で厳かな姿を現した。窓外に広がるバーミヤンの佇まいに身体が熱くなった。この風景がわたしの心の中に生涯留まり続けるであろう事を確信した。
 
 そのロケーション、景観、周囲の自然環境(背の高いポプラ並木。背後の雪をかぶったヒンズークシ山脈。昼夜の45度の温度差。澄みわたる空気)、そして、二体の石仏、誇り高い人々、あまたの歴史の興亡、そんなものが渾然一体となってわたしを魅了し、バーミヤンの大地に降り立ったわたしは陶然となったのであった。
 
 世界遺産ということをいうなら、バーミヤンほどその名に値する場所もそう多くはないように思う。森羅万象、見るもの、聞こえるもの触れるもの、感じるものすべてにいのちが宿っているのだ。
2001-03-16 Friday
バーミヤンに想う 1
 
 洋の東西を問わず戦争・紛争による破壊、焼失は繰り返し行われてきた。遠くはクレオパトラ7世時代のアレキサンドリアの貴重な文献・資料の焼失、近くは旧・ユーゴの中世都市の図書の焼失など枚挙にいとまがないのであったが、ここへ来て今回タリバンたちの愚挙は言語を絶する類の大暴挙である。
 
 確かにアフガニスタンは歴史上いかなる権力にも屈することがなかったか、屈してもすぐさま勇猛果敢に闘って自主独立を勝ち取ってきた。しかし、それとこれとは違うのである。
ソ連との10年に及ぶ戦争でも、他国の武器援助を受けたとはいえ、戦ってきたのはアフガンに住むムジャヒディン(自由の戦士)であったわけだし、マスード率いるムジャヒディンはイスラームの聖戦として頑張り抜いたのだ。その後の長引く内戦でも、無論仏像破壊などマスード派は思いもよらなかったことで、マスードは長倉洋海氏との会見で、この対ソ連戦の終結後カブール大学で建築の勉強をしたいと言っていたくらいなのである。
 
 マスードがタリバンに追われて久しい。
タリバンはイスラームの原理主義を復活させようと目論見、結局孤立してゆくのであろうが、あまりに犠牲が大きすぎた。その代償は誰が支払うのか。

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