41   ElizabethU
更新日時:
2022/09/13 
 偶然には二通りあるような気がする。出会い頭の接触事故のような偶然と、予定を変更したことで巡ってくる偶然。わたしは、後者の偶然に縁がある。
 
 1999年10月1日、関空発AF291便で一路パリに向かったわれわれ三人は、シャルル・ドゴールでAF1388便に乗り換え、同日午後9時30分(現地時間)英国・エディンバラに到着した。その夜は郊外のマリオット・ダルマホイというホテルに投宿、翌2日AVISで紺色のプジョー406・ATをレンタルして、パース経由でストーン・ヘイヴンへ。
 
 99年6月にも英国に来て、その時はカーディフ空港のAVISでダーク・グリーンのプジョー406をレンタル。フランス製の車ゆえ乗り心地がしなやかで、シートのつくりに一日の長がある。したがって、毎日長距離移動しても疲れることがない。
 
 ストーン・ヘイヴンで軽い昼食をとり、ダノッター城へと車を走らせた。ダノッター城を一目見て、いくら経路上そういうコースを取るのが至便であるとしても、最初にここを見学したのは大失敗だと思った。北海に毅然と屹立した孤高の廃城。
 
 その後、いったんストーン・ヘイヴンの町に戻り、ミネラル・ウォーターなどを購入し、バーンコリー(BANCHORY)へと向かった。バーンコリーはロイヤル・ディー・サイド沿いのひなびた町としてスコットランドでは名を知られているが、日本では殆ど無名。
 
 町の瀟洒な宿に同胞の宿泊している形跡はない。辺鄙(へんぴ)なところを選んで観光するのである、ツアーグループに遭遇するのだけは御免蒙りたい。ザワザワされると、せっかくの田舎気分満喫に水をさされる、
 
 ロイヤル・ディー・サイドのロイヤルは英国王室、ディーは川の名前。このあたりは王室お気に入りの風光明媚な場所であり、ロイヤル・ファミリーがやって来る。しかし、それはそういう意味(ロイヤル・ディー・サイドが)であって、それ以上の意味はない、普通は誰しもそう思うし、現に私もそう思っていた。
 
 1999年10月2日は土曜だった。バーンコリーにあるCrathes Castleの庭が美しい旨の情報を宿(TOR〜NA〜COILLLE HOTELE)のオールド・コンシェルジュ嬢から得ていたので、翌10月3日朝食後に見学しようと思い、Crathes Castleに電話して詳細をきいた。電話に出た女性は親切な上に気がきいていて、城や庭のあらましを手短に説明し、おまけに宿からの近道と駐車場への流れまで教えてくれた。
 
 3日は日曜なので庭園への入場は午後1時からという。バーンコリーはのんびりするには格好の町ではあるが、観光資源の豊かな町ではない。ほかにこれといって観光する場所はなく、ディー川を何時間も眺めて飽きることはないといっても、そばの女性ふたりに川眺めをつきあわせるわけにもいかない。
 
 彼女たちに事情を説明し、早めに次の目的地ピットロッホリーに入ろうかということになった。ふたりの女性はちょっと残念そうな顔をしたが、時間がもったいないからと納得した。この納得が数時間後の幸運を呼ぶ。
 
 ピットロッホリーへの道中は、ロイヤル・ディー・サイドをえんえんとドライブし、途中Ballater、バルモラル城、ブレーマー、Glen shee峡谷などを通り、約150qの行程である。美しい川と峡谷をたのしめる山岳ドライブ。
ただ残念なことにバルモラル城の見学は毎年4月〜8月上旬と決まっており、それ以外のシーズンは入場できない。女王一行が滞在するからだ。
 
 10月3日は朝からどんより曇り、空は狂人の額のように狭かった。車を走らせてから15分もたつと、しょぼしょぼと細かい雨が落ちてきた。6月に来たときは、英国は雨が多いというのは嘘だろうと思えるほど好天に恵まれた(17日間の滞在で雨の日はわずか一日、それもほんの1〜2時間)。
 
 遠くの空をうらめしそうな目で睨みながらドライブを続け、車がバルモラル城のすぐそばにさしかかった時のことである、道路沿いのインフォメーション(観光案内所)兼ギフトショップの駐車場に立ち寄ったところ、雨合羽を着た数人の警官と婦警がわれわれに近づいてきて、早口でまくしたてた。
 
 「クイーン一行が来ているので、車はこの駐車場に停め、路上には停めないように」。一瞬なんのことか分からなかった。クイーン? 
詳細を把握したかった私は、婦警に聞いてもラチがあかないと思い、インフォメーションのやさしそうなおじさんに聞いてみることにした。彼はほほえみ、もうすぐ女王一行が上(指さす方向に小さな教会らしきものが見えた)の教会でミサを行うのですよ、とこたえてくれた。
 
 女王が来るのにこの警備。婦警などを含めて数人しかいなかった。われわれはインフォメーションから目と鼻の先にある教会へと歩を進めた。そこには、これ以上小さな教会はないと思えるほど小さな教会が木立の中にひっそりと佇んでいた。
 
 教会のそばで待つこと半時間、はたして女王は中から出てこられた。エジンバラ公も、エリザベス皇太后も、アン王女まで一緒であった。ロンドンでなら考えも及ばぬことであると思う。この手薄な警備、しかもこんな至近距離(3〜4メートル)で女王とロイヤルファミリーに出会えるとは。
予定の変更を余儀なくされた結果、ふたりの女性の強運あっての偶然ともいえるように思えた。雨がなにさ、なんじゃらほい。
 
 女王陛下御一行が去ったあと、女性ふたりのうちのひとりがヘナヘナと座り込んでしまった。ふざけるのはよしなさい、と言ったのだが、本当に腰を抜かしたのだった。彼女によると、女王は日本人がこんな田舎にいることが意外だったようで、その意外さゆえに、とてもお喜びになり、こころからのほほえみと感謝を伝えてくれたのだそうである。そういう表情(驚きと喜び)をされていたのは間違いないように思う。
 
 

  42   フォワグラとトリュフ
更新日時:
2001/06/21 
 世界一美しい川はと聞かれたら、私は迷わずドルドーニュ川とこたえると思う。ミディ・ピレネーの宝石といっても誉めすぎではない。
私は海より川のほうが好きである。海に自分をなぞらえることはないが、川は自分の過ぎ来し方や行く末を想えるからであり、川面や川音を眺め、聴いていると飽きることがないからである。
 
 時の推移とともに川の表情が刻々と変化する。朝見ると稟(りん)としていても、夕方見るとなまめかしい。昼間は借りてきた猫のようにおとなしく、風に身を任せ、さやさやと流れる。だが、嵐の夜は人が変わったかのごとく悶え、熱い息を吐くのである。
 
 ドルドーニュは美しい。その佇まいはただ美しいだけではない、ある時は毅然とし、またある時は気品に満ち、そしてここぞという時はドキッとするほど妖艶な姿を見せるのだ。
ロカマドゥールからサルラに向かって車を走らせると(D703)、ドルドーニュが忽然と姿を現す。D703沿いに身を寄せるように流れている箇所がえんえんと続き、こころいくまでドルドーニュの姿態をみることができるが、彼女が私を飽きさせない理由は単に視覚的なものだけではない。水音の響きがほかのどの川とも違うのである。
 音に色気があるとでも言おうか、川のうねる音が官能的で、しかも凛々しい。
川の流れる音が規則的なものと考えたら大きな間違いである。
 
 ドルドーニュは次の流れの音の予測がつかない。水音が急に静かになったかと思うと、それまでの音とは全く違う音に変化している。これは地元の人にも予測がつかないそうで、季節によっても天候によっても音が変化するという。水の妖精たちが気まぐれに乱舞しているのであろうか、そんなところもドルドーニュの魅力なのだ。
 
 その美しくも蠱惑的な川はペリゴール地方の珠玉・サルラやペリグー、ベルジュラックと切っても切り離せず、そしてそこはフランス有数のフォワグラとトリュフの産地なのである。
 
 あらためて言うまでもなくそれらは世界三大珍味のうちのふたつである。私は三大珍味などと大袈裟なと思う。おおかた他の珍味を知らないわが同胞が命名したのではないかといぶかっているのだが、一応そういうこと(つまり世界三大珍味)にしておこう。
 
 フォワグラとトリュフは日本でも、パリやニューヨークのレストランでも高価である。ウニやアワビ、フカヒレにも相場があるらしいが、なに、浜値ならみな安いものである。
私はかねがねこの浜値ならぬ土地値でフォワグラ、トリュフを食したいものだと考えていた。そしてそのチャンスが99年10月に巡ってきたのである。
 
 ペリゴールを含むミディ・ピレネーを旅して、行く先々で私はフォワグラとトリュフを食べまくった。ただしミシュランの星付きレストランは高くてまずいので、グルマン・マーク付きのレストランで。
コルド、ロカマドゥール、カルカソンヌ、サルラなど。中でもサルラとコルドのレストランで食べた皿は味といい値段といい忘れがたい。トリュフは勿論、白トリュフも黒トリュフもいただいた。黒トリュフのほうが白より高級とされ、値段も白に較べて高価であるが、そんなことはどっちでもよろしい。要は好みに合えばよいのです。
 
 黒トリュフの田舎風スープというのをご存知でしょうか。野菜のごった煮にに黒トリュフがふんだんに入っているスープ。スープというよりトリュフの石狩鍋。
これはサルラのレストランで食したが、お一人様のお値段は1300円ほど。味はまあまあ、私はオーソドックスに肉料理の付け合わせにトリュフが添えられているほうを好む。いくら高級か知らぬが、あんな身だくさんの黒トリュフはパスします。
 白トリュフは丸のまま食べました。幾らしたかは申しません、サルラをはじめとするペリゴール地方に大挙して日本人観光客が押し寄せたら困るので。彼らはものの相場をつり上げるから。
 
 フォワグラは上記の町や村のどこで食べても安かったし、味も格別よかった。
特に味付けのよかったのはコルドの某ホテルのレストラン。ここのフォワグラの照り焼きは絶品。ソイソースで味付けしていましてね、焼き具合も最高。香ばしく、表面はパリッとしていて、中はトロンとしていました。焼き肉のレバーとえらい違いでありましたね、当たり前ですが。舌がとろけるかと思いました。
 
 フォワグラのテリーヌとパテは塩加減による。すなわち料理人の舌の鋭敏さで味に差がでる。実はこの塩加減が一番難しい、なぜなら食べる人の状況により塩分の要求度も異なる場合があるから。
概してミシュランの二つ星、三つ星レストランの料理は、ものにもよるが塩辛い。
 
 天皇・皇后両陛下が食された同じトゥールーズの「グランド・オペラ」で、同じ調理人(ホテルのマダムに確認したら、両陛下の横に彼女や調理人の写った写真を自慢気に見せてくれた)の作った料理を数種類食べてみたが、まあ、塩辛かった。
 このレストランは王侯貴族だけではなく、地元のエアバス社の御用達。
ということは、経費で落とす客が多いから、つまり、自分の財布をはたいて食べに行く客は少ないから、、味付けに進歩がない。この程度の味に星二つやるのですから、後は押して知るべしですな。
それにしても、両陛下、塩っぱいなどとは一言も口にされず、おいしそうなお顔で召し上がられたに違いありません。
 
 さて、テリーヌとパテであるが、ちょっと気のきいたブラセリーやビストロなら、料理の一皿にたっぷりパテを添えて出してくれる。私はこのパテをbaguetteにしこたま塗って食べる。手頃な値段の、つまり一本千円以下のライト・ボディの赤ワインがそばにあれば、それで十分。
 食後にうまいデザート、名人の手によるヌガー(日本でいうところのヌガーではない、この世のものとは思えないヌガー・アイスである)でも出されれば即昇天しますな。テリーヌをナイフで切ってbaguetteに乗っけて食するのもよろしい。
 
 ところで、フォワグラの照り焼きのお値段ですが、気になる人のためにここでつまびらかにいたしましょう。日比谷や赤坂のホテルのコーヒーハウスでコーヒーを飲むのとたいして違わない、と言ったらお分かりかな。
 
若い方々はくれぐれもフランスの田舎のおいしい料理の相場をつり上げる事のないよう、フランス料理は日本とかパリとかでお食べなされ、なんてね。
 
 では、お後がよろしいようで。
 
 
 

  43   ひとりっ子・田中真紀子
更新日時:
2001/06/18 
 お騒がせ女・田中真紀子は何しにわざわざ北米くんだりまで行ったのか、だれか理由を知ってる人がいたら教えてもらいたい。
よもや自分が日本の外相に就任したから、それを留学先の高校(フィラデルフィア)の同窓生に見せびらかしに国費を使って米国へ行ったのではあるまい、日米会談と称して。
 
 外交と外務省改革とは別の問題である。外務省改革は勿論真剣に取り組んでもらいたいし、その点では彼女のミーハー感覚が大いに役立つであろうが、外交はミーハーでは乗り切っていけるわけがない。
側に外務省の優秀なスタッフがついているだろうから、とりわけ省内NO.1の北米大使(外務省に限って言えば、事務次官はNO.1ではない。事務次官退官後の駐米大使がその地位にある。小和田駐米大使などがその例)がいるから、彼のアドバイスに十分耳を傾ける事が肝要であろう。
 
 あの田中角栄でさえ手を焼いたひとりっ子、小泉さんも参院選後手を焼くどころか、もてあますのではないだろうか。
誤解を恐れずに言うが、とかくひとりっ子の一人娘はわがままである。
いまはどうか知らないが、私の若かった頃、「ひとりっ子の一人娘は嫁にもらうな」と言われ、それはいわばある種の常識のようなものであった。
 
 ひとりっ子は一番風呂に入れる、お下がりを着なくてもよい、菓子も果物も独り占め、おかずも他の姉妹の好みに合わせる必要がない、親の愛を一身に享受できる、比較される相手が家の中にいないから精神的に子供でいられる…などなど、総じてわがままになる要因のてんこ盛り。
 
 おお、そういえば田中真紀子は嫁に行ってなかった、ご主人は養子さんでありましたわ。
 
 故郷に錦を飾るということはある。しかし、彼女の故郷は米国ではない。あのはしゃぎぶりを見ていると、まるで故郷がフィラデルフィアで、日本の外務大臣に出世した彼女が故郷に錦を飾ったかのような印象すら受ける。
彼女に関しては様々な議論があろう、大切なのは見かけだと言う御仁もいよう、特にメディアには。
それも承知で言うが、ありゃ一種の外相就任祝いのデモンストレーションですな。
小泉さんや福田さん、安倍さんもそれを百も承知で行かせたのでしょう。
 
 まあ、これ以上言ってもアホらしいから止めるが、とにかく外務省の改革だけは途中で投げ出してもらいたくないと思う。ひとりっ子の一人娘はとかくわがままゆえ、途中で「やーめた」となる可能性が大きいから、余計にそう思う次第である。
 
 

  44   人間だから
更新日時:
2001/06/16 
 いまから6年前、すなわち1995年から、それまでと様相の異なるような残虐な出来事が頻繁に起こるようになった。
 
 この年は1月17日に神戸を中心として淡路島、西宮、芦屋、宝塚など関西有数の町が大きな地震に襲われた。またそれから約二ヶ月後の3月20日、東京ではオウム真理教によって地下鉄サリン事件が起きた。
 
 爾来、神戸の淳君殺人事件をはじめとする、一連の世人を震撼せしめる阿鼻叫喚事。
殺伐ということばが恐ろしいまでにピタリと合う事件が日常茶飯になりつつある。
そして、かけがえのない子供を殺された遺族は言う。
      「人間のすることではない!」と。
 
 誤解を恐れず私は断言する。人間だからあんな残酷なことをやらかすのだ。生きていく上で全く必要のないこと、なんの蓋然性もないことを平気でやるのは人間だけである。ほかの動物なら一切のムダな行為はしない。遺伝子に不要な行動をおこすような回路は最初から組み込まれていないのである。
 
 犬畜生に劣るのは人間の悪しき本質のひとつであって、犬でも猫でも、何の意味もないような愚かしい行動は決しておこさない。人間だから残酷なのであり、人間こそが実はもっとも残酷な生き物であるのだ。
 
 野生のライオンやハイエナをご覧じろ、かれらが無意味な殺戮をやるかどうか、かれらのハンティングはすべて自分が生き抜くためにやるのであって、意味もなく弱者を殺すようなマネはしない。
この地球上に棲息するすべての動植物中、いちばんタチの悪いのはわれわれ人間である。
 
 他の生物は大自然の摂理に従って生き、そして死ぬ。人間は摂理も知らなければ、生きる法則も無視し、やたらとキレまくる。こんな厄介なものをだれが創りたもうたのか。私は、この6年間ずっとそう思い続けている。
 
 所詮、人間活動の8割は経済活動である。残りの2割がお金の絡まない、愛とか尊敬とか信頼とか、金を凌駕する無形の価値に基づく活動だが、それらは肩身の狭い思いをしている。形なきものを大切にあたためることによってしか人間の存在価値は見いだせないはずなのに。
 
 こんなことは当たり前のことである、わざわざここで書くようなことではない。しかしながら書かざるをえない。人間のあさましさ、度しがたさよ。
 

  45   Two is enough.
更新日時:
2001/05/04 
 何がTwoで十分なのでしょうか。車の所有台数?、家?、秘密の男or女?、etc。そんな事ありませんわな。アラブの産油国やエジプトなどのイスラム教国では一夫多妻ですし、チベットは一妻多夫(これはアラブの国々と違って経済的理由によります。ひとりの妻をおおぜいの夫が養う。所得が低いから)ですし、Two is enoughというのはあてはまりませんですな。
 
 実は、これインドの標語でありまして、子供は一家にふたりで十分、それ以上は産みなさんな、という国家の指標なのです。この目標を達成するために、インド政府は各家庭に一ヶ月何個か忘れましたが、相当数の避妊用スキンを無料配布しています。わたしがインドを旅した時、町の各所にでっかく「TWO IS ENOUGH」と書かれたペンキ塗りの看板を目にしました。
勿論、その大文字の下にはヒンドゥー語などで同じ意味の事が書いてありました。
 
 しかしながら、これが全く遵守されていない。そりゃそうです、そもそもアレを使用するなどというのは、彼らにとっては迷惑千万、自然に任せろ!ということでしょうな。政府にとりましては、迷惑千万なのはどっちだ!と言いたいところでありましょうが、生まれた子は天の恵み、だれの世話にもならず自分たちが育てる!というのが一般市民の立場。
 
 ところが、大部分の市民は極貧、ふたりでも満足に育てられないのです。それが10人以上というのはザラ、多い家ですと、15人くらいいます。わたしはアグラで知り合ったインド人の家庭に招待されましたが、そこは子供が17人いました。狭い家の狭い部屋(6畳ほど)に8人くらいの子供が雑魚寝するのです。もっと大勢の子供が6畳で暮らしている家庭もあります。
 
 避妊用具の普及もはかばかしくなかったインドですが、ある時期を境に普及しはじめた。この時はさすがに政府も躍起となりました。HIVの世界的蔓延がその契機となりました。しかし、多くの貧民窟ではPR効果もうすく、おおぜいの少女、若い男女がHIVに冒されました。
 
 いまインドでは「Two is enough」より、山間部や僻地の電気の普及に力を入れているようです。いわゆるソーラーシステムというやつ、太陽発電。ソーラーシステムは僻地に電線を引くよりコストが安い。このソーラーのおかげで各戸に電気がはいり、子供も夜間勉強できる。わたしたちが考えているような電化製品の僻地への普及はこれからで、照明の次はテレビだそうです。
 
 地球規模でエネルギー資源の転換が云々されているこんにち、化石燃料(石油、石炭)や原子力に代わってソーラーや風力、水素(車の燃料電池)、地熱などのエネルギーが今後ますます普及してくるように思います。その頃、この国、つまり日本でありますが、どういう転換をはかるのでしょうか、エネルギーも政治も。子供はすでに「One is enough」となっているようではありますが。
 
 


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