36   旅ゆけば
更新日時:
2001/07/12 
 80年代〜90年代初頭、金満国家日本の象徴は高級車、ブランド品、旅行、グルメであった。21世紀のいまはどうかというと、基本的にはたいして変わっているようには見えないが、旅行客は年々増加しているにもかかわらず旅行内容は様変わりした。
 
 欧州を例にとると、80年代半ばから後半にかけて、主要都市のビジネス客を含むAAAランクのホテル宿泊客は日本人が約3割を占めていたが、90年代に入ると米国からの旅行客の比率が高くなる。
 
 日本がバブルに踊っていたころは、とにもかくにも金回りのいい金満家がパリやミラノの一流ホテルをわがもの顔に闊歩していたものである。勿論、いちばんの上客は産油国・王家のバカ息子たちであったわけだが、無駄遣いと金離れの良さでは日本人が先頭を走っていた。
 
 私は数年に一回の割でちょっと豪華な旅行をするのであるが、96年秋ごろはちょうど英国の景気が上昇気流にのっていたので、プラハやウィーンの一流ホテルは米国人につづいて英国人の比率が高かった。おそらく東欧ではいまもその比率は変わっていないと思う。
 
 99年には6月と10月、二度英国(南西フランスも)を旅したが、6月の旅行で宿泊した一泊4万円以上のマナーハウス、カントリーハウスなどでは、日本人はわれわれとあと一組くらいで、あとはすべて米国人であった。米国人は夕食の、舌が麻痺しそうな塩っぱいポタージュをうまそうに食していたが。
 
 旅を長年つづけていると、いま現在どの国の景気が良いかよく分かる。80年代半ばから東西ドイツが統合されるまでの90年代はじめまで、バンコクの豪華ホテルに泊まって、白昼堂々と買春行為に励んでいたのは日本人ばかりではない。お察しのとおりドイツ(当時は西ドイツ)からの金満家が数の上では多かったのである。
 
 当時、連れ込みは御法度のはずのオリエンタル・ホテルで、まだ14、5歳の混血少女を自分の部屋に呼んで(電話かまたはその手の紹介であろう)、「Don’t disturb」をドアノブに掛けていた男たちは、偶然かもしれないがすべてドイツ人であった。私はそういうかれらの姿を何度か通路で目撃した、少女たちも。
 
 そのうちのひとりが、チャオプラヤ川のほとりのバイキング・レストランで、奥さんと20歳くらいの娘さんと夕食を共にしていたのには唖然とした。
 
 こんな経験は長年旅をしているとしょっちゅう出くわすので、見慣れた風景のひとつになってしまっているが、初めて見たときはさすがに気分が悪かった。無論、気分の悪いのは後者、すなわち、何食わぬ顔をして家族と一緒に分厚い肉を食っていた光景のほうである。
 
 いささか品のない話で申し訳ないが、「君、さっき、自室で食べていたではないか」と、喉まで出かけたことばを飲み込んだら、腹いっぱいになって、せっかくのタイ料理もすっかりまずくなってしまいました。
 
 
 

  37   氷点2001
更新日時:
2001/06/27 
 「氷点」は四十代以上の方はご存知であると思うが、先年亡くなった北海道の作家・三浦綾子の作品で、作品そのものが大ベストセラーになったのみならず、過去に7回ほどドラマ化された、いわば国民的小説である。
この氷点のヒロイン・陽子役に予定されているのは、「末永のどか」だか「はるか」だか忘れたが、とにかくそういう名の中学3年生。
 
 中学生がやるからどうのこうのとは言えないし、私は直接そのはるかさんでしたか、のどかさんを知っているわけではないが、写真で見る限り、どんなに贔屓目に見てもヒロイン・陽子のイメージとはほど遠い。聞くところによると、面接で100人位の中から選ばれたらしいが、面接した連中の顔が見たい。
 
 陽子といえば、過去に内藤洋子や島田陽子が演じ、聡明にしてsensitive、飛びきりの美形にして蔭のある少女。
 
 中三ののどかちゃんに、陽子の持つ外的内的イメージの片鱗すら見受けられないではありませんか。14,5歳にしてはかなりませた風貌の現代っ子という事以外の何物でもないと思いますな。すくなくとも「氷点」のヒロインではない、「HOT POINT」あるいは「HOT DOTS」のヒロインなら分かる、溶けて流れりゃみな同じ、だから。
 
 面接した人たちは原作読んだの?あ、そうか、原作読んでも、現在の渋谷、新宿、お台場あたりででウロウロしてる中高生しか見てないから、なんのイメージも湧いてこなかったんだ。
 
 氷点のヒロインにかぎった話ではなく、一事が万事こういう乗りなんだ。選ぶほうも選ばれるほうも現代だから、聡明の意味も、sensitiveの意味も、まして蔭があるなんてよく分からないんだ。
 
 ドラマを見る人たちも、その多くが上記の意味を知らない人が見るから問題ないんだ。たぶん言葉の意味も時代によって変化するんだ。それに今はVirtual realityの世の中だから、つまり仮想現実の世界だから、そもそも言葉の本来の意味とか価値はどうでもいいんだ。彼らは彼らなりに双方向なんだ。
 
 そうやって私は自らを慰めるしか他に手だてはないようであります。
 
 

  38   アフタヌーン・ティー[1]
更新日時:
2001/06/25 
 アフタヌーン・ティーに初めて出会ったのが英国であったなら、と私は半ば悔悟の念を込めてこの雑文を書いている。
本場のそれは、おおよそが都市部のホテルにおいて午後3時〜6時ごろ供出される。中味はご承知のむきも多いと思うが、紅茶に、右の画像の上から順にフィンガー・サンド、スモールケーキ、スコーンの三点セット。
 
 サンドイッチの具はアトランダムで、ツナ、卵、ハム、海老、スモークサーモンなど、どこにでもある食材。スコーンは女性に受けがいいらしいが、私たちはあまり好まない。よほどおいしい生クリームや特製のブルーベリージャムを塗って食べるとしても、スコーンの食感が舌にそぐわないのだ。(食感は大切な食の要素)
 
 英国はサンドイッチ発祥の国ゆえ美味である。しかしながら、それは英国の他の食べ物との比較上の問題であると言えるかもしれない。
 
 英国のアフタヌーン・ティーは、巷間美味であると喧伝されているようだが(英国に長期出向していた人の著書などで)、それは上記のように、あくまで比較の問題であると思う。でなければ、ある種のあきらめか開き直りでおいしいと思いこんでいるだけです。
 
 ただし、おいしいところは勿論ある。AFNTではないが、ハイランドのKentallen(フォート・ウィリアムの20q南西)にあるB&Bの夕食、朝食の味は英国ばなれしている。ここは、99年10月に女王との会見をはたした三人の隠れ家ゆえ、詳細は言えません。日本人は3年に一度くらいしか来ない(ご主人の話)場所です。
 
 

  39   アフタヌーン・ティー[2]
更新日時:
2001/06/24 
 この稿の[1]で、アフタヌーン・ティー初体験が英国ではなかったと書いた。初体験は香港のホテル「マンダリン・オリエンタル」だった。香港滞在中は夕食を午後8時前に食べるのはまれで(大人数で行っている時は別)、いまなら論外であろうが、 当時は若かったこともあり、5時頃になると空腹で元気が出なくなる。そういう時軽いものをと誰しも思う。
 
 マンダリンのAFNTには何度かお世話になったが、さらにおいしいのをバンコクのホテルで食することができた。オリエンタルのそれは味、質、量の三拍子がそろい、申し分のないAFNTであった。右の画像がそのバンコク・オリエンタルのもの。小さいので判別しがたいかもしれないが、上からチョコとクッキー、オードブル風各種、プチケーキである。
ありがたいことにスコーンはない。
写真にはあいにく写っていないが、これにオープン・サンドがつく。
 
 しかし、上には上があるもので、一番豪華で味も別格、値段もウソみたいに安かったのは、シンガポールのオリエンタル・ホテルのAFNT。これは何度食しても、その都度新しい驚きと納得感におそわれた。
料理は、同じものでも、国によって、ホテルによって、作る人によって味も内容も異なる。英国のAFNTに真っ先に出会っていたなら、たぶん、忘れがたい味になっていたかもしれないと思うのであるが……。
 
 

  40   ElizabethU
更新日時:
2022/09/13 
 偶然には二通りあるような気がする。出会い頭の接触事故のような偶然と、予定を変更したことで巡ってくる偶然。わたしは、後者の偶然に縁がある。
 
 1999年10月1日、関空発AF291便で一路パリに向かったわれわれ三人は、シャルル・ドゴールでAF1388便に乗り換え、同日午後9時30分(現地時間)英国・エディンバラに到着した。その夜は郊外のマリオット・ダルマホイというホテルに投宿、翌2日AVISで紺色のプジョー406・ATをレンタルして、パース経由でストーン・ヘイヴンへ。
 
 99年6月にも英国に来て、その時はカーディフ空港のAVISでダーク・グリーンのプジョー406をレンタル。フランス製の車ゆえ乗り心地がしなやかで、シートのつくりに一日の長がある。したがって、毎日長距離移動しても疲れることがない。
 
 ストーン・ヘイヴンで軽い昼食をとり、ダノッター城へと車を走らせた。ダノッター城を一目見て、いくら経路上そういうコースを取るのが至便であるとしても、最初にここを見学したのは大失敗だと思った。北海に毅然と屹立した孤高の廃城。
 
 その後、いったんストーン・ヘイヴンの町に戻り、ミネラル・ウォーターなどを購入し、バーンコリー(BANCHORY)へと向かった。バーンコリーはロイヤル・ディー・サイド沿いのひなびた町としてスコットランドでは名を知られているが、日本では殆ど無名。
 
 町の瀟洒な宿に同胞の宿泊している形跡はない。辺鄙(へんぴ)なところを選んで観光するのである、ツアーグループに遭遇するのだけは御免蒙りたい。ザワザワされると、せっかくの田舎気分満喫に水をさされる、
 
 ロイヤル・ディー・サイドのロイヤルは英国王室、ディーは川の名前。このあたりは王室お気に入りの風光明媚な場所であり、ロイヤル・ファミリーがやって来る。しかし、それはそういう意味(ロイヤル・ディー・サイドが)であって、それ以上の意味はない、普通は誰しもそう思うし、現に私もそう思っていた。
 
 1999年10月2日は土曜だった。バーンコリーにあるCrathes Castleの庭が美しい旨の情報を宿(TOR〜NA〜COILLLE HOTELE)のオールド・コンシェルジュ嬢から得ていたので、翌10月3日朝食後に見学しようと思い、Crathes Castleに電話して詳細をきいた。電話に出た女性は親切な上に気がきいていて、城や庭のあらましを手短に説明し、おまけに宿からの近道と駐車場への流れまで教えてくれた。
 
 3日は日曜なので庭園への入場は午後1時からという。バーンコリーはのんびりするには格好の町ではあるが、観光資源の豊かな町ではない。ほかにこれといって観光する場所はなく、ディー川を何時間も眺めて飽きることはないといっても、そばの女性ふたりに川眺めをつきあわせるわけにもいかない。
 
 彼女たちに事情を説明し、早めに次の目的地ピットロッホリーに入ろうかということになった。ふたりの女性はちょっと残念そうな顔をしたが、時間がもったいないからと納得した。この納得が数時間後の幸運を呼ぶ。
 
 ピットロッホリーへの道中は、ロイヤル・ディー・サイドをえんえんとドライブし、途中Ballater、バルモラル城、ブレーマー、Glen shee峡谷などを通り、約150qの行程である。美しい川と峡谷をたのしめる山岳ドライブ。
ただ残念なことにバルモラル城の見学は毎年4月〜8月上旬と決まっており、それ以外のシーズンは入場できない。女王一行が滞在するからだ。
 
 10月3日は朝からどんより曇り、空は狂人の額のように狭かった。車を走らせてから15分もたつと、しょぼしょぼと細かい雨が落ちてきた。6月に来たときは、英国は雨が多いというのは嘘だろうと思えるほど好天に恵まれた(17日間の滞在で雨の日はわずか一日、それもほんの1〜2時間)。
 
 遠くの空をうらめしそうな目で睨みながらドライブを続け、車がバルモラル城のすぐそばにさしかかった時のことである、道路沿いのインフォメーション(観光案内所)兼ギフトショップの駐車場に立ち寄ったところ、雨合羽を着た数人の警官と婦警がわれわれに近づいてきて、早口でまくしたてた。
 
 「クイーン一行が来ているので、車はこの駐車場に停め、路上には停めないように」。一瞬なんのことか分からなかった。クイーン? 
詳細を把握したかった私は、婦警に聞いてもラチがあかないと思い、インフォメーションのやさしそうなおじさんに聞いてみることにした。彼はほほえみ、もうすぐ女王一行が上(指さす方向に小さな教会らしきものが見えた)の教会でミサを行うのですよ、とこたえてくれた。
 
 女王が来るのにこの警備。婦警などを含めて数人しかいなかった。われわれはインフォメーションから目と鼻の先にある教会へと歩を進めた。そこには、これ以上小さな教会はないと思えるほど小さな教会が木立の中にひっそりと佇んでいた。
 
 教会のそばで待つこと半時間、はたして女王は中から出てこられた。エジンバラ公も、エリザベス皇太后も、アン王女まで一緒であった。ロンドンでなら考えも及ばぬことであると思う。この手薄な警備、しかもこんな至近距離(3〜4メートル)で女王とロイヤルファミリーに出会えるとは。
予定の変更を余儀なくされた結果、ふたりの女性の強運あっての偶然ともいえるように思えた。雨がなにさ、なんじゃらほい。
 
 女王陛下御一行が去ったあと、女性ふたりのうちのひとりがヘナヘナと座り込んでしまった。ふざけるのはよしなさい、と言ったのだが、本当に腰を抜かしたのだった。彼女によると、女王は日本人がこんな田舎にいることが意外だったようで、その意外さゆえに、とてもお喜びになり、こころからのほほえみと感謝を伝えてくれたのだそうである。そういう表情(驚きと喜び)をされていたのは間違いないように思う。
 
 


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