たのしい人生も、そうでない人生も、人生すべからく回転木馬である。
長生きする人と夭折する人との違い、それは円い回転台の半径に差があるからである。そして、いったん乗った木馬は、簡単に乗り換えることはできない。
木馬の艶と乗り心地の良さは自分では選べない。順番を待たねばならないからである。最初から色艶の悪い、あるいは色のはげた木馬もあるし、すべりやすい、あるいは股にゴツンと当たる木馬もある。
運良く望みの木馬に乗ることできれば、数周は快適である。それ以上は、座り心地に慣れが生じるゆえ、当初の感動はうすれ、前後左右の木馬のほうが立派に見えだす。自分の木馬より上下運動がしなやかで、高い位置まで上がっているように錯覚する。
さらに、自分より先を走っている木馬が、速度は変わらないはずなのに速く見える。うしろの木馬に追いつかれるのではあるまいかと不安になる。この不安は回転木馬が止まるまでつづく。
どんな回転木馬もいつかは止まる。なかには、不安が高じて、回転中の木馬から飛び降りる人もいる。
木馬がスイスイと風を切って回っている時、木馬の上下運動は官能的でさえある。木馬がただ上がったり下がったりするだけの単純な運動に快感をおぼえるのはなぜか。
それはおそらく、単純な動作ゆえに快感を味わえるのであって、赤ちゃんが単純な動作やことばの繰り返しに喜びを表すのと似ている。
回転木馬には、木製または金属製の縦バー(棒)が必ずついている。これがないと、身体を支えるものがなく不安定である。臆病な子供は必死にバーにつかまっているが、何度か乗っていると、バーにつかまらなくなる。
そうなったあとも、バーはまさかの時のヘルパーの役目を保ちつづけている。
回転木馬は回る。可能なかぎり元気よく回りつづける。遊園地の回転木馬が動いていないと、なんだかお通夜のようで寂しい。お通夜とまで思わなくとも、止まっている回転木馬を見ると、ある種の違和感をおぼえることがある。
一昨年の秋、カルカソンヌのラ・シテまで宿から歩いたことがあった、歩いたといっても、ほんの数分のことであるが。ナルボンヌ門に近い跳ね橋の手前の広場は駐車場になっているのだが、その駐車場のそばに回転木馬があるのをご存知だろうか。
道路から階段を上がりきって、ふと右手を見たら、動いていない回転木馬があった。シテと回転木馬の取り合わせは、どうみてもしっくりとはこないのであるが、そのこと以上に木馬が死んでいるように思えて、ひどく寂寥感にとらわれた。
回転木馬は回っていないと活力がない。回転していてこそ生命の輝きにみちている。
いつの間にか時は推移し、キラキラ輝いていた回転木馬は、もと来た場所へと戻ってくる。そして、すべての人が同じ感慨を味わう瞬間がある。
はたして自分は木馬に乗ったのかどうか、たしかに乗って、何度も何度も回転したはずなのに、あれは夢であったのかもしれないと思う時がやってくる。
そうして悠久の時が流れていくのです。
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