31   メールと手紙
更新日時:
2001/08/08 
知人のひとりにイスラームの専門家がいて、その人は都内の研究所で中東情報収集の仕事をしている。もう30年近いお付き合いになるが、その人は私同様、いや、私以上にアナログ派である。
 
 パソコンが普及するようになってからも、手紙はしかるべき便箋に万年筆でしっかり手書き。私は字が下手なので、出来うる限り手紙の文字はキーボードの世話になる。
 
 私が手紙やハガキを手書きにするのは海外から出すものに限定される。自分自身が、人からもらった手紙やハガキを後生大事にのこしているから言うのではないが、やはり肉筆はいい。内容が同じなら、肉筆だろうがそうでなかろうがどっちでもいいという人には、肉筆のよさは分からないと思う。
 
 「シラノ・ド・ベルジュラック」に、「このインクはわたしの血、この文章はわたしの命、この手紙はわたしなのです」というせりふがあるが、私はそれを思い出すたびに成る程と感心する。
 
 信じられないだろうが、私は高校2年くらいから現在にいたる肉筆の手紙、ハガキのすべてを保存している。一番多いのは、やはりつれあいからもらった手紙とハガキであるが、二番目に多いのが上記の知り合い・Tさんからいただいた手紙とハガキ。
 
 考えてみれば、私が海外から出した手紙やハガキの量も、もっとも多いのはつれあいへのそれであるし、次はTさんへのものであった。
 
 メールも、もらって嬉しいものはあるにはあるが、嬉しさの度合いにおいて、肉筆の手紙の比ではない。どのくらい違うかというと、肉筆のものは肉が踊るほどの嬉しさである。
 
 そして、肉筆のものは、息が詰まるほど待ち焦がれ、封を切る時の胸の高まりたるや言葉に言い尽くせない躍動感、もどかしさに溢れている。
 
 ああ、だれか、肉筆の手紙届けてもらえませんか。
 
 
       
 

  32   意識改革
更新日時:
2001/07/31 
 数年前までは盛んにいわれた単語である。最近いう人が少なくなったのは、いっても仕方がないとあきらめたのであろうか、あまり聞かなくなった。
 
 口で意識改革などと繰り返し叫んでいる人ほど、意識改革のなんたるやを知らない。よしんば知っていたとしても、どうしたら意識改革が可能なのかを分かっていない。意識改革は、おいそれとは実行できない難事業である。
 
 その難事業を、小泉さんはこともなげに成功に導いた。小泉さんは、女子高生の意識を改革した歴史上初めての政治家である。ことは女子高生にかぎったことではなく、多くの主婦の意識まで変えてしまった。
 
 大宝律令の時代から1300年、日本の政治家で、女子供の意識改革に成功した人がいたであろうか、いたら教えてもらいたい。意識改革は、まず何かに熱中してもらう事から始まる。今回はたまたま小泉純一郎という個人であったが、その個人はこの国の総理大臣で、しかも痛みを伴う構造改革を遂行しようとしている政治家。
 
 小泉さんの一言一句なんて、女子高生は聞いていないであろうし、聞いていても、ほとんど理解できないかもしれない。だが、繰り返し何度も聞いているうちに、なんとなく理解できる事柄もあるのである。授業などというものは、予習をしていなければ面白くない。人名や地名が出てきても、自分とはなんの関係もないからである。
 
 ところが、予習をしていれば、つまらない授業も少しは面白くなる。いまの女子高生の一部はテレビで政治を予習する。だから、ほんの少しだけ政治に興味を持っている。小泉さんのおかげである。
 
 選挙も、投票に行かないから面白くない。投票に行っていると、当選した政治家、落選した人の動向に注視する。
投票に行かないから政治が面白くないのは、予習しないから授業が面白くないのと同じである。それが分かっているから、私は投票しに行く。
 
 小泉さんに向かって、「純ちゃん!!」と黄色い声をあげさせた事が、実は意識改革なのである。分かる人には分かるであろう。
 
  

  33   ガラガラ・ポン
更新日時:
2001/08/03 
 去年あたりからだろうか、繁華街を歩いていると若い女性がみな同じに見える。私はそもそも騒がしい場所が苦手で、都会好きな方々が口にする「雑踏の中の孤独」などという詭弁めいた言い回しには抵抗がある。
 
 作家や詩人、あるいは、かれらの詭弁にたちまち影響されるか飛びつくタイプは、えてしてそういう言い回しを好むようだが、孤独が精神的なものであって(それはつまり物理的の反対)、人生でただの一度も人から理解されたことがないのなら、ああ、あなたは本当に孤独なんですねと思えるのであるが、実際はそうではない。
 
 たいていはちょっとしたことで寂しくなったり、悲しくなったりして自己愛のとりこになるだけのことである。孤独=自己愛。
 
 異論、反論もあろうが、私はその程度の孤独なら、ちょっとしたなぐさめや同情を示してくれるだけで、「泣いたカラスがもう笑た」に変わると思う。
 
 さて、若い女性がみな同じに見えるなどと、あまり芳しくない話なのだが、よく言われる髪型と髪の色、化粧法、衣装が似ているから同じに見えるのかなと思ったが、どうもそうではないようである。
 
 たしかに、それらは実に画一的の極みと思えるほどのもので、動物園の猿山にいる猿を見て、猿の大小以外の見分けがつかないのと同じ程度のものである。しかし、猿山の猿をよく観察していると、個々の猿の動作に個性があって、15分もすれば20〜30匹くらいの区別はつくようになる。
 
 猿に較べたら相手は人間なのだからとも思うのだが、繁華街を闊歩する若い女性は、縁日で買うどこを割っても同じ顔が出てくる飴にしか見えないのである。結局、姿形の問題ではなく、動作の問題、ついでに言えば中味の問題なのかもしれない。それらに個性がなくなったから、みな同じに見えるのだと思う。
 
 ガラガラ・ポンとやったら、、なんだこれは、たまに客寄せパンダみたいなのも出てきはするが、ほとんど赤い玉ばかりで、当たりクジはないのかと叫びたくなるのだ。
 
   

  34   濃い顔
更新日時:
2001/07/28 
濃いか濃くないかは見る人の感性の違いによっても異なるが、概(おおむ)ね濃い顔は濃さの密度が高い。
 
 濃いか濃くないかで人を判断することなど愚の骨頂である。がしかし、濃いか濃くないかでその人の性格まで濃いのではないかと思うこともある。
 
 そんな風に思うのは君だけじゃないのという方にあえて申し上げるが、いま時の人となっている小泉さんの好感度が高いのは、小泉さんの主張が受け容れられているからという理由以上に小泉さんの風貌が爽やかであるからだと思えるふしがある。
 
 単に痛みを伴うということなら、97年4月消費税を3%から5%に上げた橋本龍太郎も、国民に負担をかけて云々という事は言っていた。橋本氏は、佐藤栄作や中曽根康弘ほど濃い顔ではないが、物言いが濃い。
関西では物言いの濃さを臭いといって忌み嫌う。なに、関西人の多くが臭い物言いをするのであるが、自分のことは棚上げしているだけである。
 
橋本氏はせりふ回しが勿体ぶっていてキザ、あの物言いの臭さをイイというのはアクア系の商売に携わっている女性だけではないだろうか。アクアとは言うまでもなく水である。
 
 濃い顔、濃い声の持ち主には実力者といわれる人も多い。だが、この実力者というのが実は曲者(くせもの)で、良いこともするが、良いことをはるかに凌駕するほど悪いこともする。水清ければ魚棲まずの類である。政治家で濃い顔や声に人気がないのは、そういったことにもよるのではあるまいか。
 
 
 ところが、この濃い顔不人気も芸能の世界になると一変する。年代と好みにもよろうが、濃くない顔の芸能人は中年以上に支持され、濃い顔は若年層に支持される。そして濃い顔は年々増えている。
 
 なぜであろうか。筆者はかねがね食生活に因果関係があるのではないかと思っている。つまり、ありていにいうと肉食である。この、肉を多く食らうということが濃密な顔を作っていくのではないかと密かに考えている。
 
 若年層の食生活が肉食中心になれば、濃い顔が周囲に満ちあふれる。したがって、顔の濃さへの違和感も雲散霧消する。濃くない顔は当世はやらないのである。そうして、この世はますます濃い顔だらけになっていくのであります。
 
 

  35   回転木馬
更新日時:
2001/07/21 
 
 たのしい人生も、そうでない人生も、人生すべからく回転木馬である。
 
 長生きする人と夭折する人との違い、それは円い回転台の半径に差があるからである。そして、いったん乗った木馬は、簡単に乗り換えることはできない。
木馬の艶と乗り心地の良さは自分では選べない。順番を待たねばならないからである。最初から色艶の悪い、あるいは色のはげた木馬もあるし、すべりやすい、あるいは股にゴツンと当たる木馬もある。
 
 運良く望みの木馬に乗ることできれば、数周は快適である。それ以上は、座り心地に慣れが生じるゆえ、当初の感動はうすれ、前後左右の木馬のほうが立派に見えだす。自分の木馬より上下運動がしなやかで、高い位置まで上がっているように錯覚する。
 
 さらに、自分より先を走っている木馬が、速度は変わらないはずなのに速く見える。うしろの木馬に追いつかれるのではあるまいかと不安になる。この不安は回転木馬が止まるまでつづく。
 
 どんな回転木馬もいつかは止まる。なかには、不安が高じて、回転中の木馬から飛び降りる人もいる。
 
 木馬がスイスイと風を切って回っている時、木馬の上下運動は官能的でさえある。木馬がただ上がったり下がったりするだけの単純な運動に快感をおぼえるのはなぜか。
それはおそらく、単純な動作ゆえに快感を味わえるのであって、赤ちゃんが単純な動作やことばの繰り返しに喜びを表すのと似ている。
 
 回転木馬には、木製または金属製の縦バー(棒)が必ずついている。これがないと、身体を支えるものがなく不安定である。臆病な子供は必死にバーにつかまっているが、何度か乗っていると、バーにつかまらなくなる。
そうなったあとも、バーはまさかの時のヘルパーの役目を保ちつづけている。
 
 回転木馬は回る。可能なかぎり元気よく回りつづける。遊園地の回転木馬が動いていないと、なんだかお通夜のようで寂しい。お通夜とまで思わなくとも、止まっている回転木馬を見ると、ある種の違和感をおぼえることがある。
 
 一昨年の秋、カルカソンヌのラ・シテまで宿から歩いたことがあった、歩いたといっても、ほんの数分のことであるが。ナルボンヌ門に近い跳ね橋の手前の広場は駐車場になっているのだが、その駐車場のそばに回転木馬があるのをご存知だろうか。
 
 道路から階段を上がりきって、ふと右手を見たら、動いていない回転木馬があった。シテと回転木馬の取り合わせは、どうみてもしっくりとはこないのであるが、そのこと以上に木馬が死んでいるように思えて、ひどく寂寥感にとらわれた。
 
 回転木馬は回っていないと活力がない。回転していてこそ生命の輝きにみちている。
 
 いつの間にか時は推移し、キラキラ輝いていた回転木馬は、もと来た場所へと戻ってくる。そして、すべての人が同じ感慨を味わう瞬間がある。
はたして自分は木馬に乗ったのかどうか、たしかに乗って、何度も何度も回転したはずなのに、あれは夢であったのかもしれないと思う時がやってくる。
 
 そうして悠久の時が流れていくのです。
 
 


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