旅をしていると日常を離れるせいか、こころが解放されるせいか、ふだんあまり考えないことを考えることがある。
旅をする国に住む人々の置かれている生活環境によって考えることも異なるのであるが、共通しているのは子供の教育ということである。義務教育の年数、教材の無料配布の有無、子供が安心して学校に行けるかどうかなど考えることは多い。
私が子供の教育に関心を示すようになったのは、72年のアフガニスタンへの旅以来で、アフガンの貧しい町や村で出会った子供たちの、貧しさとは対照的にキラキラ輝いた目を見て、この子たちはちゃんとした義務教育を受けているのだろうかと疑問を持ってからの事である。
このHPの「バーミヤーン」に、大きな辞書を手にしたアフガンの少女の写真が掲載されている。あの目の輝きなのだ、私のいう輝きとは。当時のアフガニスタンは王制が敷かれていて、F・ケネディが米国大統領に就任したあたりから、アフガンは米国と緊密な関係を持つようになった。
王制は、アフガンにかぎったことではなく、中東諸国の王国(サウジやヨルダンなど)も、王家とそれに連なる一族だけが裕福に暮らし、一般の市民は何の余録にも与(あずか)れず、ほとんどの場合貧しい生活を余儀なくされる。
しかし、子供たちは学校に行きたいのであり、外国語や異文化の勉強をしたいのである。バーミヤーンの少女も「勉強が好き、特にアラビア語や英語を覚えるのが好き」と言っていた。
旅行者には能でいうところの「離見の見」に似通った傍観者としての自分がいて、旅の当事者(主人公)であるにもかかわらず、旅そのものや周りのことがよく見えているのである。
もっとも、帰国後あまりに思い入れが強すぎると、相手(国)のことをうまく伝えられないこともあるが、それは往々にして相手、あるいは旅の思い出が自分自身と同化しているからであり、肉親や子、兄弟のことを上手に表現できないのと同じである。同化とはそういうものなのだ。
私のこころの中でアフガニスタンは自分と同化しているようで、アフガンのことを幾度となく文章にしようと試みたが、いまだにうまく行かない。うまく行かないというより、文章が浮かんでこないといったほうが正しい。
これでは「離見の見」どころか、君の論理はおかしいぞと言われても「はい、すみません」と頭を垂れるしかない。アフガンは私にとって自己矛盾の国である。肉親や愛する人への感情が矛盾に満ち満ちているように。
さて、このエッセイの表題「旅人の視点」とは何か。それは、一市民が旅をしたときの視点であり、またそれは多くの齟齬をきたすほどの懐かしさや優しさ、はかなさやかなしさに溢れているものなのだ。
末尾ではあるが、このHPの掲示板に書き込みして行かれたベン子さんという方の文章全文を掲載する。ベン子さんの文章こそ、私のいう「一市民の、旅人の」視点に立ったものだからである。
「愚かな男ども」
男の中の本能かも知れない権力欲・闘争心を、愚かな男共が持つと、とんでもない悲劇が起こりますね。
ソ連がいなくなれば、次はアメリカと敵対し生き甲斐を感じる、戦い好きのビンラディン。どさくさに紛れて権力を手にし、アフガニスタンを牛耳ったタリバン。
低支持率の中、時を得たりと報復を開始しようとするブッシュ大統領。悦に入って演説するブッシュの顔は滑稽そのもの。
こんな愚かな男共のおかげで、ささやかな幸福を求めているだけの人々が、大きな犠牲を強いられる。
死んでいった人々と残された遺族の人生を考えると、堪らない思いになります。「アフガンの人々」の生きるその地で、これ以上の悲劇は、もう起こして欲しくないと心から願います。
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