26   旅人の玉座・2
更新日時:
2001/10/09 
 
 「大軍をもって攻め入れば即ち餓死、小部隊をもって侵入すれば即ち大衆に包囲される」とは、16世紀末フランス・ブルボン朝のアンリ4世がスペインについて言ったことばである。無敵を誇った英国の猛将サー・ヘンリー・デュランドは、20世紀はじめの対アフガン戦争で「英国にとって、アフガニスタンも正にその通りである」と書きのこしている。峻険な地形、乾燥した気候、水不足、食料不足などに加えて、アフガニスタンを構成する様々な民族(パシトゥーン、タジク、ウズベク、ハザラなど)の神出鬼没に度肝を抜かれたのだ。
 
 アフガニスタンは文明の十字路と呼ばれていた。いまでこそ、葡萄酒といえばフランスやイタリアの名前が挙げられようが、元来ぶどうの原産地はコーカサス一帯から中央アジアにかけてであり、アーリア人の移動以前、アフガニスタン周辺ではぶどうの栽培が行われていたのである。ぶどうをギリシア、ローマなどの地中海世界に伝えたのは小アジアのフェニキア人といわれる。紀元前1500年くらい前の話になるのだが。
 
 私は10月アフガニスタンを旅したが、収穫したての赤いぶどうも白いぶどうも、すこぶる美味であった。アレキサンドリアというマスカットの品種があるが、甘さとふくよかさにおいて、アフガンのぶどうのほうが優っていた。
 
 さて、マザリシャリフ、すなわち高貴な墳墓は、古都バルフの南東15qに位置し、バルフが13世紀チンギス・ハーンによって破壊され、衰退の一途を辿ったために都となった町である。この町のブルーモスクは15世紀のはじめに建てられたが、ムハンマド(マホメッド)の女婿アリーの墳墓とみなされ、イスラム教徒の信仰の象徴となっている。
 
 ブルーモスクの美しさについては、この稿の「1」でふれたので先を急ぐ。古都バルフの偉容はことばでは言い表せない。バルフは遺跡である。遺跡であるかぎりにおいて原形をとどめてはいない。古代、ゾロアスター教の中心地で、開祖ゾロアスターはバルフ城内で永眠したと伝えられてもいるのだが、バルフはバクトリアの首都であり、クシャーン朝の都のひとつでもあった。古代といえども、首都としての都市機能と防衛力を備えた町であったのは言うまでもない。
 
 バルフの城跡に上り、遺跡の全容をみた時、その壮大さと気品にみちた姿にこころを打たれた。畏敬の念とでもいえばよいのか、このような乾燥した気候の中で、かくも見事に数千年の風雪に耐えてきた姿と、バルフ近辺の人々の何世紀にもわたる保存努力に感動したのである。ここは、そうなのだ、ここは英国でもなければフランスやイタリアでもない、アフガニスタンなのであった。
 
 ヘラートに着く前にバルフについて書いておきたかった。ヘラートへの道は近くて遠い。
 
                    (つづく)
 
     

  27   旅人の玉座・1
更新日時:
2001/10/05 
 
 そこは古来より様々な隊商や遊牧民、仏典を携えた修行僧、探検隊が往き来した場所であった。今はとうに忘れられ、人々の記憶の隅にさえのこらなくなってしまってはいるが…。
 
 1972年10月22日、私はアフガニスタンのマザリシャリフから陸路ヘラートへと来た。マザリシャリフは、だだっ広い空間に、茶色の土を固めた平屋の家々がポツンポツンと点在するだけの町かと思っていたが、その空間には中央アジアの美神が艶やかに身を横たえていた。ブルーモスクである。
 
 パキスタンのカラチでも16世紀のイスラム建築の偉容に触れてはきたが、私はマザリシャリフのブルーモスクを空から見下ろし身体が震えたのを、今でもはっきり憶えている。茫洋とした空間に突如姿を現したトルコ・ブルーの女王。 
 
 超低空飛行の小型飛行機は、ブルーモスクのドームすれすれに旋回を繰り返した。パイロットのサービスである。女王はひとりだけではなかった。回廊に幾人もの王女と召使いを従えていた。彼女たちはラピスラズリやトルマリンを身にまとい、みな一様に女王にかしずいていた。
 
 私はもどかしかった。一刻も早く地上に降りて、彼女たちをもっと間近で見たかった。パイロットは、私のはやる思いを見透かしたかのように旋回をやめ、機首を一直線にマザリシャリフ空港に向けた。
 
 私はブルーモスクで何をしていたのか全く記憶がない。数枚の写真を撮影した事だけは確かである。アルバムにそれを示す証拠のあることからすれば。だが、それ以外の事は、記憶をどう辿って行っても思い出せないのである。ブルーモスクでの絢爛豪華な午餐会に酔いしれ忘れてしまったのであろうか。美女の手向ける盃を重ねつづけたために。
 
 アフガニスタンは驚きの国である。驚きが連綿とつづく国である。陸路カイバー峠を越えてアフガニスタンへ入国してから驚きの連続だった。詳細は別稿に譲るが、魂を震撼させる風景の絶え間がない。感動のあとにまた新たな感動が待っている。こんな素晴らしい景色を見れたのだから、もう死んでもいいなどと思ったら、命はいくつあっても足りない。
 
 ヘラートのタフティ・サファール(旅人の玉座)で見た壮大な夕景。肌だけではなく、髪も衣類もすべて真っ赤に染めずにはおかない太陽と空気の強引さ。そして、その強引さになすすべもなく心奪われる人間。夕映えの反対側の山の稜線から顔を覗かせた水色の月アイ・ハヌム(花嫁の月)は次回で。
 
                   (つづく) 
 

  28   旅人の視点
更新日時:
2001/09/26 
旅をしていると日常を離れるせいか、こころが解放されるせいか、ふだんあまり考えないことを考えることがある。
 
 旅をする国に住む人々の置かれている生活環境によって考えることも異なるのであるが、共通しているのは子供の教育ということである。義務教育の年数、教材の無料配布の有無、子供が安心して学校に行けるかどうかなど考えることは多い。
 
 私が子供の教育に関心を示すようになったのは、72年のアフガニスタンへの旅以来で、アフガンの貧しい町や村で出会った子供たちの、貧しさとは対照的にキラキラ輝いた目を見て、この子たちはちゃんとした義務教育を受けているのだろうかと疑問を持ってからの事である。
 
 このHPの「バーミヤーン」に、大きな辞書を手にしたアフガンの少女の写真が掲載されている。あの目の輝きなのだ、私のいう輝きとは。当時のアフガニスタンは王制が敷かれていて、F・ケネディが米国大統領に就任したあたりから、アフガンは米国と緊密な関係を持つようになった。
 
 王制は、アフガンにかぎったことではなく、中東諸国の王国(サウジやヨルダンなど)も、王家とそれに連なる一族だけが裕福に暮らし、一般の市民は何の余録にも与(あずか)れず、ほとんどの場合貧しい生活を余儀なくされる。
 
 しかし、子供たちは学校に行きたいのであり、外国語や異文化の勉強をしたいのである。バーミヤーンの少女も「勉強が好き、特にアラビア語や英語を覚えるのが好き」と言っていた。
 
 旅行者には能でいうところの「離見の見」に似通った傍観者としての自分がいて、旅の当事者(主人公)であるにもかかわらず、旅そのものや周りのことがよく見えているのである。
 
 もっとも、帰国後あまりに思い入れが強すぎると、相手(国)のことをうまく伝えられないこともあるが、それは往々にして相手、あるいは旅の思い出が自分自身と同化しているからであり、肉親や子、兄弟のことを上手に表現できないのと同じである。同化とはそういうものなのだ。
 
 私のこころの中でアフガニスタンは自分と同化しているようで、アフガンのことを幾度となく文章にしようと試みたが、いまだにうまく行かない。うまく行かないというより、文章が浮かんでこないといったほうが正しい。
 
 これでは「離見の見」どころか、君の論理はおかしいぞと言われても「はい、すみません」と頭を垂れるしかない。アフガンは私にとって自己矛盾の国である。肉親や愛する人への感情が矛盾に満ち満ちているように。
 
 さて、このエッセイの表題「旅人の視点」とは何か。それは、一市民が旅をしたときの視点であり、またそれは多くの齟齬をきたすほどの懐かしさや優しさ、はかなさやかなしさに溢れているものなのだ。
 
 末尾ではあるが、このHPの掲示板に書き込みして行かれたベン子さんという方の文章全文を掲載する。ベン子さんの文章こそ、私のいう「一市民の、旅人の」視点に立ったものだからである。
 
 「愚かな男ども」
 
 男の中の本能かも知れない権力欲・闘争心を、愚かな男共が持つと、とんでもない悲劇が起こりますね。
 
 ソ連がいなくなれば、次はアメリカと敵対し生き甲斐を感じる、戦い好きのビンラディン。どさくさに紛れて権力を手にし、アフガニスタンを牛耳ったタリバン。
 
 低支持率の中、時を得たりと報復を開始しようとするブッシュ大統領。悦に入って演説するブッシュの顔は滑稽そのもの。
 
 こんな愚かな男共のおかげで、ささやかな幸福を求めているだけの人々が、大きな犠牲を強いられる。
 
 死んでいった人々と残された遺族の人生を考えると、堪らない思いになります。「アフガンの人々」の生きるその地で、これ以上の悲劇は、もう起こして欲しくないと心から願います。
 
 
 

  29   宣戦布告なき戦争
更新日時:
2001/09/12 
 アメリカを震撼させるには十分すぎる出来事であった。時間をたっぷりかけ、綿密に計画され、膨大な資金と技術と人員(テロリスト)を費やし、周到な用意のすえに実行された悪魔のシナリオ。イスラームの復興主義、いわゆる原理主義者の犯行に間違いない。
 
 イスラーム教の聖戦という概念は、仏教や儒教の価値観の影響下にあるであろうわれわれとは根本的に異なっている(それは別稿に譲る)。ある状況下において戦争が罪悪ではないという概念は、欧米諸国ではいわば常識となっているが、それは言うなら軍部的考えであって、一般市民の概念は、攻撃されたら、防戦のための攻撃はやぶさかならずという考え方である。
 
 ヨーロッパ大陸は、常に戦場大陸であって、ヨーロッパ史はほとんど戦争史といっても過言ではない。気が遠くなるほどの数の戦争史も、ナポレオンの登場で力による均衡がもたらされるかのように見えた時期もあったが、英国の強さの前にひれ伏すこととなる。
 
 その後も戦争は繰り返し行われ、ギリシア独立戦争、クリミア戦争、イタリア統一戦争、普墺戦争、普仏戦争など、5年に一回ほどの割合でヨーロッパのどこかで戦争が繰り返されてきた。
 
 好戦的などという表現は彼らのためにあるような言葉であると、常々わたしは思ってきた。しかし、先の第二次大戦以来、ヨーロッパは一部の国々を除いて平和を保ってきたようである。大戦での疲弊が余りに大きすぎて、国土も「戦い終わって瓦礫の山」状態であったのである。まず自国の復興が最優先課題であった。
 
 米ソの冷戦時代を経て、世界は一見平和であるかのように思えたが、 20世紀も後半となって、イランのホメイニ一派による「イスラーム革命」以降一変する。
ホメイニはイスラーム復興という、とんでもない大時代的かつ時代錯誤の価値観を、イランをはじめとする中東諸国の原理主義信奉者にもたらした。
 
 当時のイラン国王・パーレビを支持していたアメリカとの確執はここから始まる。イスラーム原理主義は欧米でいうところの民主主義とは大いに異なる価値観をもつ。詳細は別稿に譲るが、この原理主義者の中でも、もっとも過激なアフガニスタンのタリバンと、タリバンを支援するラディン一派は、ホメイニの申し子である。
 
 アメリカを最大の敵と見なし、アメリカの中東諸国に対する横暴な振る舞い(イラン・イラクへの経済封鎖、イラクへのミサイル攻撃、アメリカによるイスラエル支持など)を糾弾し、報復することに血道を上げる。
 
 ある状況下において戦争は罪悪ではないと冒頭に記述した。戦争は罪悪ではないが、テロ行為は顕著なる罪悪である。ここで、ある状況下とはどういう状況かについて述べる。一言でいうと、宣戦布告後の戦争は罪悪ではないのである、たとえ何十万人の人々が一瞬のうちに尊い命を奪われたとしても。それは、先の大戦、広島、長崎の原爆投下でも明らかである。
 
 アメリカは今回のテロを史上最悪の惨劇というが、ならば南北戦争はどうなのか。あの戦争はアメリカ人同士が相争い、血で血を洗う戦闘を4年もくり広げたのである。
 
 勿論、今回のような行為はいかなる言い分も通用しない。イスラームであろうが、原理主義であろうが、無辜の民を巻き添えにした行為は到底許容できないし、テロ行為は、いかなる理由によろうが正当化できるものではない。
かれらの思惑は容易に想像できる。アメリカを混乱に陥れ、おのれの計画遂行能力の高さと確実さを世界に誇示すること、世界の警察であるとおごり高ぶっているアメリカの威信を失墜させることである。
 
 米国民は、この事態を単なるテロ行為とは受け取っていないようである。戦争の一形式、もしくは戦争そのものと受け取っているようだ。そうなら、これは宣戦布告なき戦争である。今後はアメリカの対処の仕方に、特に報復措置に世界の関心は移っていくのであろうが、宣戦布告なき戦争であれば、戦争が罪悪ではないという理屈は通るのだろうか。
 本音と建て前を使い分けるのが得意なアメリカである。世界最大の多民族国家・アメリカの動向は、今後しばらく世界の注目を集めることとなりそうである。
 
    (2001年9月12日午後10時33分 脱稿)
 
      

  30   心の旅
更新日時:
2001/09/04 
 旅には3種類の旅しかないと私は思っている。 思い出をつくる旅、思い出を辿る旅、そして、それらの旅の組み合わせ‥
思い出をつくりながら思い出を辿っていることがあり、また、思い出を辿りながら新たな思い出をつくっていることもある。私が旅をするのは、旅をすることによって心が解き放たれるからであるのだが、旅の途中で必ずといってよいほど追憶にふけってしまう。心の解放感と追憶は両立しないように思えるが、私には立派に両立する。それらはお互いに干渉しあわないのである。
 
 旅をしながら、自分自身の過去や思い出とのすり合わせを無意識のうちに行っているのである。ある風景‥ことばを失い、魂を揺り動かすほどの風景に出会った時などは、特にその傾向が強くなる。
 
 そんな時、私は眼前の風景にではなく、私のこころに奥深くに封印された風景を思い出し、それに酔っているのだ。さらにいうと、思い出の中にしまってあった風景こそが最高であるはずなのに、それに勝るとも劣らない風景に出会えたことに感動しているのである。考えてみれば変な話だ、現在と過去がそうして出会い、交錯し、さらに大きく膨張するなんて‥。
 
 私は旅に出るといつも思い出を辿っているように思う。時の経過がつらいこと、かなしいことを忘れさせるという。そうかもしれない。終生忘られぬ風景に出会うと、つらいこと、かなしいことが、いったん心の中で大きく膨らみ、さらにそれがはじけて、感動という別のかたちに変化する。
 
 時間がかなしみを忘れさせるのではない、時の流れがかなしみを増幅し、人生のかけがえのなさを思い起こさせるのだ。だからこそ、より深く眼前の光景に感動するのである。心をゆさぶる風景が、かなしみを感動に変貌させるのでる。
 
 私はその変化する瞬間と、変化していく時間の推移がたまらなく好きだ。この刹那的瞬間と移りゆく時間を、こころいくまで味わいたいからまた旅に出る。そして思い出を辿り、心の旅を続けるのである。
 
 若い頃、といっても、ほんの7〜8年前までは思いもしなかったが、どんな風景でも、こころに深く刻印される風景に出会ったときは、心に深い傷を負ったものほど感動も深いのではないだろうか。感動の深さは心の傷の深さに比例するのではあるまいか。そんな気がしてならない…。
そんな風に思うのは、秋という季節のせいばかりではないだろう、旅の素晴らしさゆえであろうし、旅が心を語るのであろう。
 
 
 


FUTURE INDEX PAST