極楽は日が短いとはよく言ったものだと思う。母方の伯母が時々言っていたのであるが、子供心にうまいことを言うものだと思った。勿論、子供のことであるから、遊びの時間はアッという間に過ぎ、宿題に費やす時間は長いというくらいにしかとらえていなかったのだが、いま思うと何のことはない、子供の頃感じたこととなんら変わらないように思う。
遊びは楽しく、楽しい事をしていると時間は早く過ぎていく。極楽は日が短いのである。さすがに遊びの内容は子供時代とは異なるが、遊びというのはどこか胡散臭さがつきまとうものであり、また、それゆえに遊びが面白いということも言えるのではあるまいか。
みんなから誉められたり、尊敬の眼差しでみられるような遊びは、はっきり言って、楽しくも何ともないのである。誤解されるかもしれないが、趣味と遊びとは違う。趣味と遊びが同じという人も数多くいると思うし、なに、それはそれでよいとも思うのだが、遊びはやっぱり胡散臭いのをよしとしたいのだ。
いまより遙かに若い頃の遊びは、だいたいアレか、賭け事か、ホニャラホニャラであった。胡散臭さにおいても、気品に欠けるということにおいても、やれ旅行であるとか、古典芸能であるとか、ハイキングであるとかの趣味からすれば下下味亭である。
下下味亭は、「かがみてい」と読み、三十数年前、私が通っていた東京のW大学(腕白大学?)の同好会が奈良で合宿をした折に、よく利用した一膳飯屋である。ここのご飯とおかずと味噌汁は絶品。わが懐かしのMさんに連れていってもらって以来、たちまち病みつきになった。
遊びに気品は不要であるし、もし遊びに気品があるとすれば、それは自分がそう感じるのではなく、周囲の者がそのように見なすだけの事であろう。千利休は、自分の茶道が品位にみちているとは思っていなかったはずである。もし思っていたなら、彼は阿呆である。品位があるかないかを決めるのは自分ではない、他人なのだ。
自分が才気に溢れているか否かを決めるのも他人であるし、性格が良いか悪いか、やさしい人かやさしくない人かを決めるのも他人なのである。従って、米国のいう正義が本当に正しいかどうかを決めるのも他人であろう。自分で勝手に決めるのは狂信者だけである。
極楽は日が短い。ゆえに極楽にいる時間は貴重である。刻々と極楽に滞在できる時間は少なくなりつつある。若いあいだは、その無知ゆえに、無思慮ゆえに、無防備ゆえに、つまらないことに感心したりするし、感心したことを臆面もなく人に披露するが、十分な経験を積み、人生も下り坂に向かってくると、若い人たちの言動が滑稽にみえてくる。
かれらは極楽は日が短いことを知らぬ。なぜなら、われわれとは全く異なる、豊かな子供時代を過ごしてきたからだ。だから、極楽は日が短いなどと言っても、ただ首をかしげるだけであろう。戦争だ、戦争だと騒いでも(無関心な若者のほうが多いだろうが)なんら実感は伴っていないのである。Web上の仮想現実に過ぎないのである。
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