夫婦を長くやっていると、人にもよろうが、否が応でも相手の資質と本質をまともにふりかぶる。ふりかぶるといって悪ければ、大いに影響を受けるか左右される。若い頃は人間の本質なんて小説の中だけの事と問題にしなかった人たちまでもが、知らず知らずのうちに問題にしはじめている。
男女がそれぞれに持つ資質は無視できないものがあり、容貌や頼もしさ、その人の雰囲気という資質に拘泥しがちである。私の知り合いには、料理が上手というだけで嫁にもらったという者もいる。勿論、料理の腕の良いのは立派な資質である。大方の顰蹙を買うのを承知でついでに書くと、遠い親戚に、他になんの取り柄もないけれど、床上手だけが取り柄だと臆面もなく語っていた又従兄弟もいた。
料理上手も床上手も得難いものであるという前提で話を進めるのであるが、両方を兼ね備えていたにも拘わらず離婚したカップルもいる。勿体ないと笑ってばかりはおれないのだが、この話などは、夫婦が資質だけでは長持ちしないということの好例ではあるまいか。
上記の例で、別れた後にしまったと後悔するかどうかは分からないが、人の多くは資質より本質を重んじる傾向があるように思う。資質は、夫婦という人間関係中もっとも遠慮のない組み合わせの場合、決定的な価値とはならないのかもしれない。詰まるところ、双方が求めてやまないのは思いやりや理解、温かさではなかろうか。人は年を取ればとるほどある部分で子供化するのである、と書くといささか唐突だが、原始の自分に戻るのである。
だからこそ、資質ではなく本質を大切にするのかもしれない。対外的にいくら強気に気張って生きている人でも、心のやすらぎと平安を欲する。それは万物の創造主が付与した人間本来の欲求といってよいだろう。こころの休まる余地のないところに人は安住できないのである。
釈迦は、と私は何の根拠もなく勝手に思っているのだが、人を救ってこそ自分も救われるという事を初めて言いだした人ではないだろうか。さらに言うと、人を救うことによってしか自らが救われないというさだめを背負っていたのではなかったろうか。
その事を充分理解し、共感をおぼえた人たちが釈迦に付き従ったのではないだろうか。
人の心に長く留まるのは、資質ではなく本質なのである。
続きは後日。
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