11   ユーロ・2
更新日時:
2002/01/09 
  
 ヨーロッパを旅する者にとって、通貨の統一ほど便利なものはないと思う人は少なからずいる。とりわけ駆け足旅行の「10日間ヨーロッパ4カ国の旅」などというツアー参加者にとってみれば、両替が一回ですむという事はすこぶる利便性に富むというべきであろう。私なんぞはどちらかというとヒネクレている方なので、各国各々の紙幣を手にするたのしみが減った、と文句の一つも言いたい所であるが、それでも、各国各銀行によって搾取された法外な手数料が消滅したことは、誠に喜ばしい事と思う。
 
 オーストリア・シリングをリスボンの某大手銀行でポルトガルの通貨・エスクードに両替したら、8%の手数料を取られた経験をもつ身となれば、なおの事である。ちなみに8%の手数料を払い、異なる国で異なる通貨に4回両替したら、10万円は7万1千6百円に目減りする。
 
 銀行によっては12%の手数料を取る悪徳銀行もあり、英国、ドイツなどの一部の銀行を除き胡散臭いバンクも多いが、日本でも、あの悪名高い振込み手数料というのが存在し、銀行はいずこも手数料収入で稼いでいらっしゃるようです。
 
 無論コトは手数料の問題だけではない。銀行によって勝手に定められた交換レートは、前もって下調べをするか、地元の両替通に尋ねるかしないと、結局バカをみるのは自分なのだから。銀行の独自性などと手前味噌な事をいうが、なに、善良な市民からピンハネしているだけの話である。
 
 上記のような事に神経を尖らさずにすむだけでも、統一通貨ユーロの導入に賛成すべきかもしれない。今までのフランスの場合を例にとると、フランの下にサンチームという通貨単位があり、ドイツの場合ならマルクの下にペニヒという通貨単位があった。それらの単位もすべてユーロ・セントになり、1ユーロ=100ユーロ・セントで統一される。分かりやすい事この上なし。
 
 さて、通貨は文化であるなどといえば、そわ何事と思われるやもしれないが、通貨は文化であり、ある種のインフラ・ソフトなのである。私たち人間の活動の80%は経済活動である、と私はカネガネ思っており、経済活動のほとんどはカネとモノで成り立っていると愚考する。
 
 もっとも、だからこそ残りの20%の内の数%にすぎない無形の活動を大切にしなければならないのだが、それについては別稿に譲る。
 
 21世紀の統一通貨ユーロの登場は、古代ローマ以来の通貨統合などとのたまう人もいるようであるが、これは甚だ歴史認識を欠く言いようで、古代ローマ帝国は、確かにヨーロッパ全土に広大な版図をもち、銀貨や銅貨(カエサル以降は金貨も)を基軸とする通貨を帝国のすみずみまで普及させはした。しかし、普及はさせたが強制はせず、帝国内の自由都市、自治都市などの通貨鋳造を容認していたし、その通貨の流布・流通に関する自由も与えていた。
 
 古代ローマ人の感性というのは、民族意識の根底には、それぞれ異なる民族の数だけ文化が存在し、かれらはそれぞれの文化を自らの命同様大切にしていた、という事を理解しうる感性であったと想像させるのである。
民族独自の通貨を持ちたいと切望すること、それが文化なのだ。ローマ人はそれを分かっていたのである。
 
 人間活動の8割が経済活動であってみれば、文化の中にも経済は入り込んでいるのであって、その文化を支える者たちの中にも経済、すなわちカネやモノが関係していたのである。 
 
                    (未完)
 
 
 

  12   ユーロ・1
更新日時:
2002/01/29 
 
 12カ国、3億人が使用するヨーロッパ最多の通貨ユーロが始動した。ヨーロパを今後も往き来する一旅行者の視点でユーロについてのべたいと思う。
 
 そう考えていて、ふとテレビの画面に目をやると、ベルリンから二村伸が衛星中継でユーロのレポートをしていた。なんと珍しい、二村伸が戦場の最前線以外の場所にもいたのか、南極越冬隊をエーゲ海で見るようなものだと思ったら、いつの間にやら二村伸はベルリン支局長となっていた。
 
 「今日のトピック」の「THE MAN WHO CRIED」の中でも二村伸のことにふれたが、彼ほど戦場に明け、戦場に暮れた報道人もそうざらにはいないのではあるまいか。彼を戦場で見るたびに、ああ、よかった、まだ生きていてくれたと何度思ったか知れはしない。
 
 戦場の取材が長期に及ぶということは、生命の危機のほかに、それだけ栄養不足になるということであり、現に二村伸は戦場レポートの回を追うごとに頬がこけ、痩せ細っていった。 
 
 コソボの時に較べ、今回のアフガンが余程過酷な状況下での取材であったかは、彼の歯のボロボロになったことでよく分かる。秋から冬にかけてのアフガン山岳地帯の自然は、私も経験しているが、そんじょそこらの厳しさとわけが違う。日中30度の気温は夜にはマイナス20度となり、テント生活も長くなると、保存食など役に立たない。激しい寒暖差がからだの代謝を悪くし、免疫力さえ低下させ麻痺させてしまうのである。
 
 二村伸は、そんな中で長期の取材に耐え、カメラの前で常に爽やかな顔を見せていたのだ。私は、そんな二村伸を見るにつけ、イスラマバードやペシャワールに派遣された報道人とキャスターに言ってやりたかった、君たちは幸せだなぁと。二村伸を見よ、彼の報道魂を君たちの心の奥に銘記せよと。
 
 そんな二村伸がベルリン支局長となって、嬉しさと安堵感がこみあげ、心からおめでとうと言いたい気持でいっぱいである。がしかし、NHKの7時のニュースに出ていた彼の表情を見ると、嬉しさとは裏腹に、やはり二村伸は戦場が一番似合うと思ってしまうのである。戦場にいた彼は、充実感と緊張感と誇りに充ち満ちていた。なのに、ベルリンの彼は、こころなしかはにかみの風情を見せていたのだ。あの頑強な男が、はにかんでいた。だからますます私は二村伸の贔屓となるのである。
 
 さて本題に戻ろうとしたら、小澤さんのニューイヤー・コンサート(ウイーン・フィル)が佳境に入り、「こうもり」の序曲が演奏された。ニューイヤー・コンサートでいつも「こうもり・序曲」が聴けるとは限らないし、私はこの曲が大好きなのだ。そうこうする内に「ウィーン気質」が演奏され始めた。これを聴かずして新年は訪れない、と、思ったら、「美しく青きドナウ」。
 
一昨年の大晦日まで、9年連続で大阪シンフォニー・ホールへ「ジルベスタ・コンサート」を聴きにいった。そして新年はそこで迎えたのである。「美しく青きドナウ」は、私を闇から救い上げてくれた音楽だった。私はこの曲を聴いて、その年もどうにか生きてこれたという感慨に浸ったのだった。
 
 実は毎日のようにニューイヤー・コンサートを聴いている。私は風邪などで体調を崩した時以外、ほとんど年中車に乗る。車のCDプレイヤーはCDが6枚収納可能で、カルロス・クライバーのニューイヤー・コンサート(ウィーン・フィル)とクラウディオ・アッバード他のオペラ名曲集、フリードリッヒ・グルダのモーツアルト・ピアノ協奏曲20、21番などは私の定番なのである。であるから、二日に一度は「こうもり・序曲」と「美しく青きドナウ」は車中で聴いている。なのに飽きないのはなぜか。
 
 結局、ユーロについては書けそうにないので、後日にいたします。正月はこんなものでしょうか。
 
 (上の画像は邪道似顔絵師の作品「二村伸」です。なお二村伸氏は、ベルリン支局長の肩書きでアフガン入りした、つまり、元からのベルリン支局長であったという絵師さんのご指摘を附記します)
 
                  
                    (未完)
    

  13   資質と本質(最終回)
更新日時:
2001/12/30 
 
 資質と本質ということについて、とりとめのない話をしてきた。政治家の本質を問わず、その資質ばかりが問われる現代の風潮に異議を唱えたかったのであるが、自分やつれあいの事にスペースを割きすぎたように思う。
 
 小泉首相の師・福田赳夫元首相は、日航機がハイジャックされた時、ひと一人の命は地球より重いという名言をのこして人質救助に全力を尽くした。福田さんの決断はこんにちの政治的趨勢からみれば、一国の首相としての資質に欠けると思う人も多いだろう。
 
 しかし、福田さんの判断は政治家としての資質を超越し、ひとりの人間の本質を如実にあらわしている。もし人質にとられたのが自分の妻子であったなら、という事を考えていただきたい。日本赤軍の要求に対して他にとるべき手段はあったのだろうか。時間はないのである、時がいずれ解決するなどと悠長なことは言っていられないのだ。
 
 福田さんが、人間としての本質ではなく政治家としての資質に拘泥していたら、事は全く別の展開をしていただろう。私は確信しているのだが、福田さんには何の迷いもなかったと思う。心の赴くままに人命救助の決断を下した。ひとりの人間のいのちは地球より重いのである。この言葉は福田さんから自然に洩れた言葉であり、福田さんの心の声である。そうなのだ、これが本質というものなのだ。
 
  この世でおきたことは必ずこの世で解決する、と私の母は言った。この世でもっとも大切なのは真心であると言った。言葉も、行動も、すべて心が司っているのだから。
 
 人は、いや、この世の森羅万象はことごとく陰陽から成っている。昼と夜、はく息とすう息、悪魔と天使。殺すも生かすも心のなせるわざである。私たち人間はあさましい、しかし、それゆえにいとおしい。人間には美と醜、陰と陽があり、これはどんな人も両方併せ持つ。その人により美が勝るか醜が勝るかの相違はあるが。
 
 真心とは、美をもって醜を押さえ込む力である。赤ん坊の心は一点の曇りもなく、ひたすら美しい。その曇りなき真心で赤ん坊は自らを救っているのである。真心は人のためにあるのではない、自分自身のために存在するのである。
 
 人は往々にして自分の姿は見えない。しかし、天は見ている。天といって具合が悪ければ、自らの魂は見ているのである。
 
 長々おつきあいしていただき、本当にありがとうございました。心から感謝いたします。
 
                     (了)
 
    
 
 
 
 

  14   資質と本質(8)
更新日時:
2001/12/27 
 
 親と子、夫と妻にかぎっていえば、信頼関係はどのように構築されていくのであろうか。実のところ私にはよく分からない。私にも分かることといえば、約束を守ることと、とにかく子供や妻を徹頭徹尾守るということくらいしかない。
 
 しかしこれは、謂うは易し行うは難しで、終生それを実践していくのは至難のわざである。親はたびたび子供との約束を反故にするし、夫は往々にして妻を守りきれないのである。
 
 親子の場合は、よしんば子供との約束を破っても、子にさんざん文句を言われることは覚悟せねばなるまいが、それで親子の信頼関係がすべて損なわれることはないだろう。というのも、子供は約束すべてを守るのは相当骨の折れる仕事であると思っているふしがあり、結局、たまさか約束を守れない親でも、よもや自分を裏切らないとどこかで親を信じているからである。だから、親に裏切られた子は悲惨なのだ。
 
 私の半生を振り返ってみると、つれあいとの約束のすべてを守ってきたとは決して言わないまでも、約束は大切にしてきたように思う。そして、これは私自身の心に刻み込んだことなのだが、何があってもつれあいを守っていこうと誓ってきた。他家に嫁ぐということは、そのこと自体大変な事であり、いわば敵陣に単身乗り込むようなものなのだ。
 
 夫である君が守ってやらねば、一体誰が妻を守ってやれるというのか。君にとって生家とは慣れ親しんだ場所であったとしても、妻にとっては奇人変人の住まいするお化け屋敷なのである。
 
 嫁とはかなしいものなのだ。従順な嫁ほどかなしさはきわまりない。姑と嫁との問題は永遠のテーマであり、母親を取るか妻を取るかはこれまた夫たる君の永遠のテーマであろう。だからこそ、つらいのを忍んで妻を支えていかねばならないのである。敵陣に身を置く妻のつらさに較べれば、君のそれはいかほどのものがあろう。
 
 いつか必ず、二者択一に際して君のとった選択が間違っていなかったと思える時が来る。男はそうして親離れしなければならないのだ。そうでなければ、妻は立つ瀬がないのである。敵地に乗り込んだあげく、路頭に迷うほかないのである。
 
 親子でも夫婦でも、守るべき立場にあるほうが、守られるべき相手を守る。これなくして信頼関係を築くことなどできないのではあるまいか。そして、これは建前とか本音の問題ではないし、資質の問題でもないように思う。あえて言うなら、性格の問題。そうだとすれば、人に言われて実行できるような事柄でもあるまい。むしろその人の本質に関わることであるといえるのではないだろうか。
 
                  (つづく)
 
 

  15   資質と本質(7)
更新日時:
2001/12/27 
 
 経営の才、先見の明、決断力など、これらは資質であり、それぞれが人間的魅力の背景となるのだが、しかしそれが一体なんだというのか、難病を治癒したり、人間の心の奥深くにひそむ根元的不安を軽減してくれるというのか。
 
 経営の才や決断力などというものは、成功してこそ意味をもつのであって、成功しなければ何の果実をもたらすというのか。人間の資質とは、果実をもたらして初めて資質の面目を保つのであり、意味が付与されるのである。
しかし本質はそうではない。人間の本質は、成果をもたらすか否かではなく、新たなものをつくる過程自体に関わり、それ自体が成果なのである。信頼しあうこと、思いやること、支え合うことによって、人は安息と充足という得がたいものを体感するのであってみれば。
 
 信頼し合えなければ、一つ屋根の下に暮らすことなどエベレスト登頂より難しいだろう。信頼への自覚がないことが信頼なのであって、夫婦でも親友でも、空気のような存在をもってよしとせねばなるまい。信頼に値するような資質などあるものではなく、ふと気付いてみればお互いに信頼関係ができていた、そういうものなのだ人と人は。資質から信頼関係が生まれることは稀である。なぜなら信頼関係とは無形財産のようなもので、資質から生まれるのは形あるものだけである。
 
 閑話休題。
 
 他人はごまかせても、自分自身の心はごまかせない。自分をごまかせると思うのは、当人がそう錯誤しているか、そういう人生を選ぶしかないとあきらめているかである。しかし、いつか必ず人生の帳尻は合うもので、ごまかしている分こころとからだの負担は大きくなる。負担が大きくなりすぎると、こころもからだも壊れるだろう。
 
 信頼と契約とは当たり前のことながら違う。信頼はこころの問題であり、文書に署名するような問題ではない。人のもつ温かさを誰が署名できよう。ひとりの人間に占める温かさ比率など文書化できるものではない。畢竟、信頼はこころの温かさがなければ成り立たず、こころの温かさは努力して得られるものではないだろう。
 
                  (つづく)
 


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