ヴィクトル・ユゴーは、19世紀フランスを代表するといってもいい大文豪である。大は詩人・作家としてのユゴーに冠せられるのみならず、漁色、吝嗇にも付与せられる文字であり、ユゴーが妻帯してからの人生は、それらの予定調和といっても言い過ぎではない。
文豪といえども、ひとりの人間であるかぎりにおいて、金銭や閨房の波乱と乱行はつきものゆえ、とやかく詮議立てする類のものではないと言いたいところだが、ユゴーの場合は度を越しているとしか言いようがなく、一夜のご乱行が幾夜かあった、などというシロモノとは性格を異にするのである。
あえて彼の弁護をするとすれば、妻・アデルが、夫・ユゴーの不快感を催すほどの精力絶倫さに嫌気がさし、あろうことか、ユゴーの友人・サント=ブーヴと関係を持ったことに、彼の漁色の端が発せられたという事であろうか。無論それとて、単に妻へのあてつけであったのなら、数度の不倫で鉾先を納めてもよかったのだが、そこは先天的漁色ということもあって(ユゴーの父も不倫はともかく、精力は不夜城であった)、ユゴーの性才は一気に花開いた。ユゴー29歳、アデル28歳の秋であった。
ユーロがいつの間にかユゴーになって、読者諸氏におかれては、最初からの語呂合わせかとお思いやもしれぬが、そのような意図は全くなく、2002年はユゴー生誕200年目であり、そしてまた、もっとも人気のある歌舞伎狂言「仮名手本忠臣蔵」の、吉良邸討ち入りから300年目という節目なので、この縁もゆかりもないフランスと日本の人物と歴史が、通貨によって結ばれるであろう寓話を語ろうとしたまでの事である。
さて、妻の裏切りに衝撃を受けたユゴーがまず向かったのは、マダム・クロードの館、つまり娼館であった。筆者が不思議に思うのは、自らも手帳を出納帳代わりにし、妻にも家計簿作成を強要したユゴーが、決してお安くなかったであろう娼婦との交遊に、これも決して分厚くはない財布をはたいた事である。ところが、これも調べたら、なんとユゴーは、娼婦との交際費まで逐一手帳に記していたのである。その習慣は生涯保たれた。
そうこうするうちに、ユゴーにも愛人ができる。そして、この最初の愛人とユゴーは、不可思議な縁でその後も苦楽を共にする事となるのだが、だからといって、ユゴーの漁色盛んなことに変化のあろうはずはなかった。彼は、長年の愛人であったこのジュリエッタにも家計簿をつけさせ、彼女のもとを訪問するたびに、それまでの収支をチェックしていたのだ。
すこぶるつきの美女であったジュリエッタが、彼の要求に従順であることも長続きした理由のひとつだと思われる。しかし、長続きした理由はほかにもある。ジュリエッタはユゴーの才能をこよなく愛していたようである。
ユゴーとその妻・アデルとの間には、6人の子がいた。長男は生後3ヶ月で夭折したが、その後長女、次男、次女と恵まれた。ユゴーはとりわけ長女を愛していたようで、「レ・ミゼラブル」の主人公ジャン・ヴァルジャンの養女コゼットは、長女がモデルと思われる箇所が幾つかある。(「ユーロ・4」でふれた、60万フランも愛する者を失ったかなしみの前では無価値であると嘆く場面)
吝嗇家ユゴーはその名の通り、途方もない財産をのこすのだが、イザベル・アジャーニが演じた「アデルの恋の物語」で発狂した、その次女アデル(妻と同名)を除いて、妻も子もすべてユゴーより先に亡くなるのである。ただ幸いにもと言うべきか、妻子に先立たれる不幸にもへこたれず、83歳でお迎えが来る間際まで、ユゴーの漁色の失われることはなかった。
ユゴーは、70歳の時から交遊のあった、あの大女優サラ・ベルナール(当時は新進女優)と、73歳(1875年)になっても閨を共にしていたのだ。そして、例の手帳にこう書き記している。
「子はできないであろう」
華々しい異性交遊に事欠かず、文字通り太く長く生きたユゴーではあったが、妻子のだれひとりとして遺産を相続するものはなく、ユゴーの残した金は、思いもしなかった死に金となったのである。
(未完)
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