56   「こんにちは」
更新日時:
2001/03/30 
 日常最も多く使われる言葉のひとつに「こんにちは」という挨拶語がありますが、この「こんにちは」、海外で使うと意外な効果があります。
山登りやハイキングの経験のある人ならお分かりかと思いますが、ハイカーどうしが道ですれ違った時、お互いに「こんにちは」と声をかけます。
 それと同じことを海外でも実践するだけのことなのでありますが、これが人によってはちょっと抵抗があってね、と思うむきもおありでしょう。「ほれ、日本人よ」なんて御自分も日本人なのにそんなこと言ったりして。
 
 小生は海外に出たら必ず道ですれ違った同朋に「こんにちは」と挨拶します。
人によって様々な反応の仕方があって楽しいのですが、中には聞こえているのに無視する御仁もいます。でも、それはそれ、気にしてはいけません。
 「こんにちは」と言うだけなので、誰にでも出来ることですが、二、三注意せねばならないことがあります。「こんにちは」と言うとき、先方とこちらの距離が離れすぎていてはよくない。小声で言うと相手に聞こえないこともあるし、万が一耳の遠い方ですと、こちらがぼそぼそと言っても、「あれ、いまの日本人みたいだけど、何か言ったの?」なんてこともあります。
 
 また、大声で「こ、ん、に、ち、は!」などと叫んではなりませぬ。
ビックリ仰天して、心臓が止まったらえらいことです。
すれ違いざま言うのもよくありません。失礼ですから。
声を掛けるタイミングと声の大きさに気を遣いながら、「こんにちは」のひとことを気分よく言うのがよろしかろうと思います。
 
 これがうまくいきますと、相手が好印象を持ってくれますし、こちらも実に気持がよい。ある初夏の夕方、英国・エジンバラでゆるやかな坂道を下っていたら、同朋ふたりが上って来ましたので、「こんにちは」と声を掛けました。先方は意外だったのか一瞬とまどったようですが、すぐ「こんにちは」と言ってくださいました。
 
 翌朝、ホーリールード宮殿へ行こうとして、ルームキーを預けるのにフロントに寄ったら、昨夕のおふたりがおられました。
チェック・アウトなさっていたのですが、奥様が驚いたような顔で隣のご主人の肩を思い切り叩いてこうおっしゃった。
 「ねえ、ねえ、あなた、きのうの感じのいいご夫婦よ!」
 
 
 

  57   片岡仁左衛門ー4
更新日時:
2001/03/24 
 仁左衛門の孝夫時代、随分昔のことになるが、NHKの大河ドラマ「太閤記」に森蘭丸役で出演していた。信長は高橋幸治、光秀が佐藤慶というはまり役にはさまれて、やりにくいだろうなと思ったが、どうしてどうして美青年・蘭丸を事もなげに演じていた。玉三郎との孝玉時代以前の話。
 大河ドラマもつまらないものをやることがあるので、見る機会が減ったが、南北朝の抗争を背景に「太平記」だったか、題名は憶えていないが、後醍醐帝役を孝夫が演じたことがある。歴史の転換期に事あげした荒ぶる御魂の天皇を、ひげ面の孝夫は厳しく演じきった。
 天皇役は他の役と違ってやりにくかったであろうし、役作りにも苦労したのではあるまいか。
 
 孝夫という人は自分に対してアグレッシヴ(攻撃的)である。
人形浄瑠璃の床本の読みが深いことを書いたが、この深さは自らにきわめて攻撃的であることによると思う。
役のもつ奥行きはひとりの人間同様深く、幾層にもわたって無数の皮膜が入り組んでいる。皮膜の数だけ真実があり、その場その場の思い入れがあるのだ。
 
 人の心ほど一貫性のないものはなく、その首尾一貫していない不揃いの存在を、一貫性のないまま強靱な人間像に仕上げていくのであるから、自分自身に対して攻撃的な性格の役者でなければ、とてもの事あまたの客席の心を奪うことなどできないのである。
 
 そういう意味では、市川猿之助、中村勘九郎などもこの攻撃的な類の役者であろう。猿之助の講演を何度か聞きに行ったことがあるが、必ず言うセリフは「作家、画家などは死んでも作品はのこるが、歌舞伎役者が死んだら話にしかのこらない」である。
 言い得て妙であると思う。猿之助はその点が残念なのだと言っているのであるが、実は、言外に「だからこそ舞台で死力を尽くすのだ」とも言っているのだ。
そして、こうも付け加える。
 「お客の目が舞台に集中している時はおのずと熱が入るし、よい演技を見ていただきたいと強く思う。しかし、団体さんの貸し切りで、芝居を見に来ているのか、お弁当を食べに来ているのか分からないような時は芝居に身が入らない。面白くないからわざとセリフを間違えてやるが、誰も気がつきません」
そんな事を言って笑わせる。
 
 仁左衛門と猿之助、タイプも性格も仁も異なる役者だが、共通しているのは自分に攻撃的であること。
康夫ちゃんや慎太郎さんは政治家という職業柄からなのでしょう、他者に対してきわめて攻撃的。どのような職業にも厳しい面はある。歌舞伎役者の世界も例外ではない。これからも常にお客の目を釘付けにし、心を惹きつける芝居を続けてくれることを願ってやまない。
    
                       (了)
 
 
 

  58   片岡仁左衛門ー3
更新日時:
2001/03/22 
 仁左衛門が舞台に復帰した当初は見ているだけでハラハラのしっぱなしであった。やはり病み上がりは隠しようもなく、白塗りをしても顔の色つやのなさが分かった。身体に切れと張り、勢いがなかった。
仁左衛門の奥さんもいつもの様子とは少し違って見えた。歌舞伎座、松竹座の一階入り口付近で贔屓客に応対している姿はいつも通りなのだが、仁左衛門同様勢いを欠いているように見えたのである。
 
 ふたりを見て一心同体という言葉を思い出し慄然とした。
仁左衛門が完全復帰したのは97年、つまり平成九年のことではないだろうか。この年の春、松竹座のこけら落としがあり、四月・夜の部「先代萩・床下」の仁木(にっき)、そして夏、七月の松竹座「関西・歌舞伎を愛する会 第六回」の夜の部「土蜘」の智籌(ちちゅう)で仁左衛門(当時は孝夫)は見る者を驚愕せしむる腹と仁(にん)、すさまじい思い入れによって新境地を開いたのだ。
 
 忘れもしない平成九年七月十四日夜、四日前の七月十日昼に「土蜘」を見て思わずうなった感動のいまださめやらない日、松竹座・楽屋口から御堂筋に出たところ、ラーメン屋前で仁左衛門とバッタリ出会ったのだ。「夜の部」最後の翫雀の「越後獅子」を見なかったのが良かった。見ていたら仁左衛門と会えなかった。夜目にもそれと分かるインディゴ・ブルーの麻のジャケット、白い綿のスラックスをラフに着こなしゆっくりと歩いてきたのである。仁左衛門が松竹座に出ている時に御堂筋で時折見かける濃紺のBMW750iが待っていたが、わたしの連れ合いが突然のことでびっくりしたのであろう、口に手をあてて「わあ〜!!」と叫び声をあげた。(ちなみに彼女は孝夫命というほどの仁左衛門びいき)
 
 そのつれあいの様子を見ていた仁左衛門の顔は今でもこの目に焼き付いている。ひとりのファンに対する目とはほど遠かった。慈愛に満ちた優しい目で、どこか気恥ずかしい身のこなしで、彼女の思いをしっかり受け止めるかのごとく見てくれたのである。そそくさと車に乗り込むことなど彼の人柄が許さないのである。
 
 以来、その時の孝夫さんの様子はどんなだった、と何度同じ事を訊いたであろう、その都度わたしは何度同じ事を答えたであろう、あれから四年近く経ったというのに、まだ時折同じ事を訊かれる。
 
                     (つづく)
 
 

  59   片岡仁左衛門ー2
更新日時:
2001/03/21 
 何年前になるだろう、仁左衛門(当時は孝夫)が南座・顔見世の楽日、舞台終演後に倒れ、東京の病院に長期入院したのは。
肺に重い病を患い、しばらくは集中治療室で点滴と鼻からの流動食で生死の境をさまよい続けていたのだ。顔見世のあと、歌舞伎座にも中座にも出演しなかったので変だなと思ったが、二ヶ月ほどは何事もなかったように時が移って行ったから気にも止めていなかった。
 重病に罹っていると知って愕然とした。前年、仁左衛門を伊丹空港で二度見ていた。いずれの時も奥さんが寄り添うように側にいた。しかし、こころなしか仁左衛門の顔色は青ざめていて、もちまえの草原の風をなびかせたような清々しさを欠いていた。目が信じられないほど険しかった。いつもの仁左衛門ではなかった。その前、料理と露天風呂が自慢の山陰の温泉宿一階にある喫茶室で見た時に較べると別人だった。ゆったりとコーヒーを口に運んでいたが、季節は晩秋なのに、そこだけは満開の桜が咲きそろい、えもいわれぬ風情であった。
 
 仁左衛門が重病と知った時のわたしの慌てぶりといったらなかった。
心配より「もう二度と舞台で見れないのではないか」、「こんなことなら時間を割いてあれも見ればよかった、これも見ればよかった」、「六代目(菊五郎)を見れる時代に生きていて幸せでした、と云った年寄りの気持ちがやっと分かったぞ」、そんな気持ばかり先走って、矢も楯もたまらなかった。
 仁左衛門は病院で苦しんでいるのに、後悔と反省、不安と懸念が次から次へ浮かんでは消え、消えては浮かんだ。
 
 だから、仁左衛門が恢復・退院したテレビの映像を目にした時、もう半狂乱だった。これからは絶対に見逃すまい。そう心に誓ったのである。
 
                     (つづく)

  60   片岡仁左衛門ー1
更新日時:
2001/03/20 
 歌舞伎役者、当代十五世の仁左衛門です。義太夫狂言、例えば「寺子屋」の松王丸、「仮名手本忠臣蔵」の由良之助、「熊谷陣屋」の熊谷などを演じたら比肩するもののない(熊谷は吉右衛門もいるではないかと文句を言うムキもありましょうが)仁左衛門のことです。
 
 人形浄瑠璃の床本の読みの深さは十三世譲り、その読みの深さが上記の役どころに深みと色彩を加味しているのです。
 「顔よし声よし姿よし」という言葉がピッタリする役者、なかなかいません、この人以外は。そういう意味では、由良之助も松王も三拍子そろっていなければ演じるのも難しい役柄ですね。二枚目が一番似合う役者なのですが、実は実悪(敵役の中で最も重い役)も似合う。
「先代萩・床下」の仁木。花道のスッポンから煙とともにドロドロと現れる。口に巻物くわえた妖術使い。この役わずか数分、ほとんどじっとしていてセリフもない、花道の引っ込み前に不気味な笑みをもらすだけ。
 
 たったそれだけのことなんですが、観客全員の目を釘付けにさせてしまう。
劇場全体が異様なといってもよいような緊張感に包まれる。
そういう意味では「土蜘」の僧・智籌(ちちゅう)などは鬼気迫るものがあります。
歌舞伎では「花道」の揚幕から人や動物が出てくる時、チャリンといって独特の音を出すのですが、智籌の出(で)は音を出さない。
出さないどころか、揚幕を上げるかすかな音さえ聞こえない。最大限神経を使ってそろっと上げるんですな。しかも、舞台では他の役者が演じていて、客はそっちの方に気がいっていて誰も揚幕の上がるのが分からない。
 
 しかし、その出のとき感じたんですね、いいようのない寒気を……。
この僧、実は土蜘の化身、妖怪変化であります。その妖怪のおどろおどろしさ、魑魅魍魎(ちみもうりょう)のオーラを花道の出で仁左衛門は発散させている。
それを感じて、思わずうしろ、つまり花道・揚幕のほうを振り返ったのです。
 
花道を音もなくやって来たのは、役者でも人でもありませんでした。
こころに怨念をもつ蜘の精そのものだったのです。
これを至芸と言わずして何が至芸でありましょう。
               
                     (つづく)
 
 
 
 


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