7      ダルビッシュ・有
 
 8月23日、夏の高校野球は終わった。全試合みたわけではないが、いくつかの試合が心に強くのこった。なかでも平安と東北の投手戦は本大会屈指の名勝負だった。
平安の服部投手と東北のダルビッシュ投手は互いに一歩も譲らず、11回裏で決着がつく(1−0で東北のサヨナラ勝ち)まで二年生投手の技と意地とが真っ向からぶつかり合い、息もつかせぬ緊迫感が甲子園球場にみなぎり、テレビの前の私たちにも尋常ならぬ緊張感が走った。
 
 球児たちは甲子園で野球をとおして人生を学ぶ。昨夏、春の選抜で学びそこねたことも学ぶのである。当たり前の話だが野球はひとりではできない、どんなにピッチャーやバッターにずば抜けた力量が備わっているとしても、9人(と控えの選手)がいなければ成立不能なのである。
 
 私は東北のダルビッシュという超高校級の投手をイヤなヤツだと思っていた。身長194センチの恵まれた体躯、卓越した技と力をもっているから余計に鼻についた。ダルビッシュのチームに対するある種の傲岸不遜ともいえる態度が、甲子園にふさわしくないのではとさえ思っていた。
謙虚さの不足は練習不足となり、思いもかけぬ失態につながる。今春の選抜でダルビッシュは埼玉・花咲徳栄戦で6回までに9失点と冴えなかった。東北も9得点だったが、東北は9回裏サヨナラ負けした。しまりのないゲームだった。
 
 ダルビッシュへの不満の最たるものは、ダルビッシュは二年生なのに、三年生に対して4年生か5年生であるかのようなデカい態度で振る舞っているようにみえたことである。ダルビッシュ、君ひとりが獅子奮迅しても、野球は9人いないとできないのだよ、肝心なのは技や力ではなく、野球に取り組む姿勢なのだよ、私はそう言ってやりたかった。
 
 しかし、ダルビッシュへの私の思いが行き過ぎというか思い過ごしであると気づくまでそんなに時間はかからなかった。ダルビッシュが腰に痛みを感じながらピッチャーズ・マウンドに上がっていたということを私は知った。
痛みがひどくなって投げることもできなくなったとき、彼は逍遙とマウンドを朋友の真壁に譲り、ベンチで精一杯応援したのだった。
 
 対平安戦の、まるで鬼神が憑いたかのようなダルビッシュの投げっぷりは、単に相手に負けたくないという球児の意地だけでなく、母校の栄誉を、さらには自分の人生を賭けて、そしてまた東北六県を代表して闘っているという気迫を感じさせるに充分なものであった。明らかに春とは違っていた。猛練習が彼を変えたのだろうか。
 
 ダルビッシュは何が大切で何が大切でないかが見えるようになった。言い換えれば、的確に状況判断ができるようになったのだ。そうでなければ同輩や先輩の信頼を得るには至らなかっただろう、技と力だけでは仲間の信頼を得ることはできないのである、地位と権力だけでは信頼を得れないように。
 
 そしてまた、ダルビッシュの心配りをカメラは見事にとらえた。右足すねの骨膜炎と診断され、マウンドに立てなかった準決勝の江の川戦、投手・真壁の汗にまみれた顔を入念にタオルでふいてやっていた後ろ姿を‥。控えのエースとして力を発揮した真壁は、今夏の甲子園でベンチ入りの定員を2名増やし、定員を18名としたことで出場できたのである。真壁の背番号は18番なのだ。
 
 常総学院との決勝戦、テレビのスイッチをONにし、後攻めの東北のピッチャーズ・マウンドにエース・ナンバーの1番をみたとき、私は胸が熱くなった。ダルビッシュは足の骨膜炎を押して東北地方の栄誉のために立ったのだ。
 
 常総学院の打線を3点以内に抑えるのは自分をおいてほかにないという状況判断がダルビッシュをマウンドに向かわせたのである。3点に抑えれば、必ず味方が勝利に導いてくれる、それがダルビッシュ・有の読みだった。
結果は4ー2で常総学院の優勝に終わったが、終盤8回表、4点目をとられたときのダルビッシュの残念そうな表情がすべてを物語っている。
 
 ダルビッシュの非凡さは、彼がゲーム全体の流れを把握できる能力にある。投手でいながら彼は名将の資質をそなえているのである。
ダルビッシュのいるチームなら、深紅の優勝旗を一度も持ち帰ることのなかった東北六県に優勝旗をもたらせることができるかもしれない、そういう期待をもてるのである。予選を闘う東北の選手はなおさらその思いは強かろう。
 
 秋の地区予選までに骨膜炎を完治させ、万全の体勢で臨んでもらいたい。
ダルビッシュは東北を優勝に導く使命を担っている。幸いにも野球に取り組む姿勢の素晴らしい真壁、4番で一塁手の横田は二年生、チャンスに強い三塁手・加藤は一年生。しかし宮城県には仙台育英という最強のライバルがいる。仙台育英が東北の前に大きく立ちはだかるだろう。
 
 私はいまから来年の高校野球への期待にワクワクしている。これだからこの国を離れられない。高校野球と仁左衛門の存在ゆえに私はこの国に生まれてよかったと思うのだ。
高校野球も歌舞伎も、心技体がそろわねば見物客を心から感動させることはできない。技や体力、あるいは美しい体は大切な要素である、だが、最も重要なのは心ではないだろうか。心‥役者でいうところのハラ‥がなければ、演技も舞台も単なるみせかけのものとなり、観客の目を釘づけにすることも、深い感動を呼ぶこともない。
 
 人生に取り組む姿勢、心の大切さを球児たちは甲子園で学ぶ。それゆえに目を離せない名勝負が繰り広げられるのである。心そなわればおのずと人の心を打つ。剣道に「打って反省、打たれて感謝」という言葉がある。高校野球にもその精神が生かされていると私は思う。甲子園球場が球児の聖地といわれる理由はそこにあるのだ。
更新日時:
2003/08/30
次頁 目次 前頁