52      マスードを悼む

(上のマスードの画像は長倉洋海「マスード・愛しのアフガン」からの転載です)
 
アハマッド・シャー・マスードはアフガニスタン陸軍・高級将校で、敬虔なイスラーム教徒の父の影響を受けて育った。当時モスクに礼拝した人の証言によると、マスードはもっとも幼い礼拝者であったというから、まだ物心もつかない内に父に連れられ、モスクに行って祈りを捧げていたのであろう。
 
マスードはアフガンのパンジールで1952年に生まれたが、70年代はじめにカブール大学工学部に入学、建築の勉強に専念していた。ちょうど私がアフガンを訪れた72年10月、マスードはカブール大学に在学していたのである。
 
マスードは裕福な家庭に育ち、高校もフランス式教育で有名であったイステクラン・リセに通っていた。その頃のアフガニスタンは王制が敷かれていて(国王ザヒール・シャーは78年イタリアに亡命、今も健在である)、貧富の差も大きく、教育も富裕な子弟のものであったし、近隣諸国、とりわけ産油国に較べると近代化も著しく遅れをとっていた。
 
マスードは王制に敢然と立ち向かい、後にソ連との10年に及ぶ戦いにも勝利し、アフガンのムジャヒディン(自由の戦士)の象徴となった。
 
私がマスードの名を初めて知ったのは、フランス国営テレビ「フランス・2」の特集番組を通じてで、ソ連がアフガンへの侵攻を開始した1979年か、翌1980年であったと記憶している。ソ連との苦しくつらい戦いにマスードたちムジャヒディンが勝利し、ソ連が撤退したというニュースの第一報が入った時、私は極上のワインとシャンパンを買って祝杯をあげたものである。
 
その後のマスードの運命はプレスの伝える通りである。戦いに明け、戦いに暮れたマスード。マスードは、「アフガンがこんなことになっていなかったら何をしていますか」、あるいは、「戦争が終結したらどうしますか」というNHKの質問に対して、「大学にもどって建築の勉強をやりなおしたい」とこたえている。
 
いまはただ、マスードの冥福をこころから祈る。マスードは私の支えであった。私の目の黒いうちは、マスードのような高潔なヒーローは出てこないだろう。マスードはアフガニスタンの素晴らしさの象徴だった。
 
更新日時:
2001/10/06
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