50      イタチごっこ
 タリバン攻撃の火ぶたが切られた。米国にとってみれば、満を持しての空爆であろう。まず国際社会と米国民の同意、支持を取り付け、アフガニスタンの過激な原理主義者の軍事拠点を調べ上げ、一気呵成に攻撃にうつる。
 
 米国は言わずもがな、英国もフランスもドイツも世界の正義を守るための戦闘行為という。しからば正義とは何か。極悪非道なテロ行為から文明社会とそこに住む人々を守るというのであるなら、それは理にかなっていると言えるかもしれない。しかし、極悪非道の定義は容易ならざるものがある。 
 
 殺人行為はいかなる理由があろうと殺人行為である。裁判で死刑判決が下って処刑されるのとはわけが違う。テロ行為で数千人の民間人が犠牲になるのも殺人であれば、戦闘行為で数千人の市民が巻き添えになって死ぬのも殺人であるだろう。
 
 巻き添えにするつもりはなかったというのは子供の言い訳であり、巻き添えになる人が出るのを百も承知で断行するなら確信犯と言わざるをえない。
 
 言うまでもないがタリバンはごろつき集団である。また、オサマ某は魔界から派遣された殺人者である。麻原某となんら変わるところがない。オサマ某はイスラーム信仰の肝心な部分、人間が平安、やすらぎに満ちた日々を送るための努力を行えという教義を完全にねじ曲げている。
 
 宗教が目ざす究極は、魂の救済であるべきはずである。原理主義というなら、それ(魂の救済)がすべての宗教の原理であろう。悠久の歴史を乗り越え、多くの人々が帰依し支持されてきた宗教は、殺人を正当化などしてはいない。宗教の創始者の教えはそういうものである。
 
 問題は時の為政者あるいは首謀者である。十字軍といい、タリバンのゴロツキ戦士といい、不満分子を煽動した責任は万死に値する。殺戮を聖戦、自爆を含む死を殉教などとだれが言った。中世のローマ教皇は、当時日陰者であった貴族の次男、三男の不満と正義感、出世欲を巧みに利用した。千年近い時が立っても、何が変わったというのか。
 
 パレスチナとイスラエルのごとく、やられたからやりかえすというのでは、いつまで立っても争いの火種は絶えない。肉親の情としてはたしかに耐えがたいものがあろう。親兄弟を殺されて黙っていられるわけがない。先人は「歴史は繰り返される」と言った。だが、歴史が繰り返されるのではない、人が繰り返すのである。
 
 米国をはじめとするキリスト教的価値観は、この戦闘行為を正義とした。しかし、正義は掃いて捨てるほどある。戦争はいつの時代も常に不毛である。イスラーム教的価値観とキリスト教的価値観の不毛な争いは、21世紀のイタチごっことなるのであろうか。
 
 いつの世もワリを食うのは弱者である。焦眉の急はタリバンを全員アフガニスタンから追放することである。勿論、問題はそれで解決することはないが、タリバンがアフガニスタンに居座りつづけているかぎり、アフガンの住民は悲惨であろう。こころの平安は望みがたかろう。タリバンを追放するのにどれほど時間を要するかと、タリバン追放後のアフガニスタンこそ問題である。
 
       (2001年10月8日午後7時12分脱稿)
更新日時:
2001/10/08
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