48      ことば(1)
 
ことばの効用については古来より無数のうんちくがあるので、いまさらという気がする。また、ことば=情報ということなら、早稲田や同志社の新聞学科の先生に任せるのがよかろう。私がここで書くのは素人の素人による素人のためのことば論である。
 
ことばにはおよそ二つの機能がある。情報を与えることと、ある雰囲気をつくるという機能が。前者は主に新聞・テレビの果たす機能であり、後者は文学のもつ機能である。ある雰囲気などと書くと、井戸端会議でもある雰囲気をつくるではないかと言われそうだが、井戸端会議は単に意識の表層をすくったことばが出鱈目に乱れ飛ぶだけで、創造的喜びとは無縁である。
 
手紙と文学の違いもそこにあるように思われる。こころのなごむ手紙というのは、もらって嬉しいが、創造性を鼓舞することはないし、至高の喜びに到達することも稀である。手紙は、どんなに優れた手紙でも、所詮意識の表層をすくったことばが書かれてあり、心の深淵にまで到達することはない。
 
もっとも、恋文はそのかぎりではないかもしれぬ。よくできた恋文は男女の想像力を刺激し、創造性をも引き出す力を持つ場合がある。喜びに関しては、言うのがヤボであろう。ただ、恋文は恋文特有の世界を創出しうるが、恋文によって高級な喜びを味わうことは少ない。また、到達する深淵の場所が異なる。
 
恋文はもらった相手のことが重要なのであり、文面や文体は二の次である。そこが文学と異なる点である。文学は文体が醸し出す雰囲気が重要なのであって、文体はことばの選び方と並べ方により生じ、著者の名前は二の次である。読み進んでいく内に、著者の名など忘れるほど没頭することのほうが肝要なのだ。恋文からは相手の顔や名前に、そして、これから起こるかもしれない事の想像に没頭する。
 
ある種の「恋文」は昨今メールや掲示板という名に姿を変えつつある。顔と名前の見えぬ恋文であるが、メル友などという造語が何よりもそのことを物語っている。恋文とメールや掲示板は同じではない! そう言いたいムキもおありだと思う。しかし、同じなのである。
 
もし掲示板やメールに、君の鼻がもう少し高かったらとか、その尖ったアゴなんとかならないかとか、あと10sやせてほしいなどと書いたらどうなるだろう。おそらく、二度と書き込みに来ないだろう。メールの配信も停止されるだろう。
恋文も、掲示板やメールも、相手の美点だけを書き、決して欠点をあげつらってはならないのである。
 
 
さて、ことばによって創られた世界のはかなさ、うつろいやすさは一片の花びらに似ている。しかも、散った桜は翌年ふたたび咲くが、時代遅れのことばには来年はない。高級感はただちに古くささに置き換えられるのだ。
 
ことばにはいのちが宿っているようにも思うのだが、そのいのちたるや、…ひとひらの花びらと同じであったのか!
 
                      (未完)
更新日時:
2001/10/23
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