34      コーヒーブレーク (1)
 
 ホームレスには本当のホームレスと擬似ホームレスとがあって、後者のことを家庭内ホームレスというのだそうである。本当のホームレスは、私の子供の頃にはルンペン(Lumpen=ドイツ語。ぼろ、古着の意)と言っていた。当時ルンペンとは浮浪者のことであったが、同時に失業者を意味する隠語でもあった。単に失業しているだけでルンペンとは失礼な話だが、そういう表現を好んで使う人の数は決して少なくはなかったように思う。
 
 ルンペンという言葉はすでに死語同然で、ほかにも無理矢理死語になった言葉もある。めくら、おし、つんぼ、かたわなど。と書くと、それは死語ではなく差別用語ですと云う人がいるだろう。正確にはそうかもしれない。死語と死語同然とは微妙に異なるのだが…。
 
 差別用語というのは、本人や家族の前、あるいは、メディアを通して発言もしくは著述するから差別用語なのであり、陰口ならいっこうかまわないということではないのか。
 
 だいたい、聾唖者に面と向かって「あなたは盲目ですね」とか「唖ですね」などと言う人がいるのかと訝らざるをえない。就学以前の幼い子ならうっかり言うかもしれないが、ふつうは言わない。差別用語などと言葉を隔離するから、かえって特別の意味が付与されて、世にも怪しい言葉のように見なされるのではあるまいか。
 
 言葉を規制する手段として差別用語なるものを設け、その言葉を使えば差別ですよとたしなめる。何もしないより何かするほうがよいという事の典型、差別用語を作ったことで、さらに差別が際だつという事の見本である。
 
 石原東京都知事はこの頃中国を支那とメディアの前で言わなくなったそうである。あれだけ支那、シナと連発していたのだから、各メディアはさぞがっかりしていることだろう。連発している間は非難することもできたし、記者も嬉々として取材していたであろうが。メディアなどというのはその程度のものである。人が失言(私は必ずしも支那発言を失言とは思っていない)したり、人に不幸が襲いかかってこなければ仕事にならないのだ。
 
 テレビも新聞も、報道や取材に係わる記者がもっとも生き生きしているのは大事件が、それも悲惨な事件が勃発した時である。私は彼らの生態を何度か生で目撃してきたから、そう断言して憚らない。突発的な殺人事件が起きた時などは特に精彩を放ち、社に電話している顔はまるで宝くじに当たった人のそれである。
 
 中には陰にこもる顔つきをするのもいるが、それは見るからに作った顔で、その証拠に頬が引きつっている。無論、嬉しさを隠すから引きつるのである。そういう彼らが差別用語とは、よくもまあ恰好をつけたものだ。取材で非常識な分の罪滅ぼしのつもりであろうが、なに、なんの罪滅ぼしにもなってはいない。
 
 
                      (未完)
 
更新日時:
2002/07/07
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