29      詠み人知らず
 
 これはいったいどうしたことであったのか。生存しているのかいないのか、こころならずも身罷っているのか、もしそうであるなら、なにゆえそうなったのか、自分の亡骸は何処にあるのか、魂はいまどこをさまよっているのか、それを、そのことだけを親や兄弟に知らせたい、横田めぐみさん、有本恵子さんはそう思ってはいまいか。
 
 無念といえばこれほどの無念はほかにない。自らの生死さえ定かにはできず、さまよえる魂はよろこびともかなしみとも無縁であり、かなしみをさえ家族と分かち合うことはできないのか。死ほどかなしく辛いことはない。そしてまた、強いられたであろう死の理由を知らせることもできず、死を弔う者もないということがどれほどまでに耐えがたいか。
 
 思えば私が能にのめり込んでいったのは、私自身の経験が修羅能の世界と同化したからであった。はからずも魂の救済を求めたことが能にのめり込ませたのだった。修羅の世界は、生を奪われたことに対してではなく、自らの魂の救済されぬことを慟哭し、鎮魂を求める。
 
 「松山天狗」の崇徳上皇、「忠度」の平忠度などは、死そのものより生きてきた自分の存在理由を否認されたこと、志を遂げられなかったことに悲憤したのである。志を得られなかったこと、存在理由を打ち消されることは、時と場合によって死より辛いことなのである。
 
 忠度の霊は夜になると昔の武将の姿となって現れ、平家が朝敵となったため、「千載集」に採られた自分の和歌が「詠み人知らず」と記されたことを嘆き悲しむ。生きてきたことの存在理由とはかくも深淵で峻烈なのである。
 
 横田めぐみさんのご両親をテレビで拝見するたびに人は思うのだろうか、もし拉致されたのが自分であったら、あるいは自分のかけがえのない子であったら…。
 
 誤解を恐れずに申し上げる。横田めぐみさんのご両親は、もしかしたら天が地上に下された神の使者なのかもしれない、最大の試練を経験された横田さんご夫婦の子をおもう親の尊さを通して、一人でも多くの人々に思いやりとやさしさを育んでもらい、のちの世に受け継いでもらうための。
 
   
更新日時:
2002/10/03
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