28      人のこころU
 
 自分のほんとうの姿を見ることのできる魔法の鏡があれば、ほとんどの人は見たあと鏡を割るのではないだろうか。自分の姿が正視に耐えられないからではない、信じられないからである。
 
 自分が人にどういう風にみられているか、判断するのは自分ではなく人であり、やさしいか厳しいか、情があるかないか、気前がよいか悪いか、謙虚か傲慢か、正直かウソつきか、公平か不公平か、無欲か強欲か、それらを決めるのはみな他人である。
 
 自分で判断した事がすべて正しく、正鵠を射ているのなら、ヒトラーがドイツの救世主であるという自己評価は正しい。自らの正当性を主張し、固執しつづけるならば、自分の姿を鏡にうつしてみたらどうか。それでも信じられないなら、鏡を割る前に三日後、五日後、七日後と何度もみればよい。
 
 自分サイドには正しいと思えることが、相手サイドにとっては誤りということもある。無論その逆もある。人のこころに映る映像は、必ずしも自分が描いている映像とは一致しないのであり、それは自分のこころに映る他者の映像が、その他者本人が思い描く映像と異なるのと同じである。
 
 人のこころは推し量りがたく、いかようにも変化し、とらえどころがない。しかし、変わらないと思えるこころもある、子や兄弟の生を奪われた家族がおそらくはこころの中で一様に思うことがある。失われたいのちの重さ、かけがえのなさは言及するまでもなく、なぜ、どのように奪われたかについて、事の真相をつまびらかにして謝罪してほしいのだ。
 
 家族は、子のいのちを奪われたという事実もさることながら、ごまかしと隠蔽に対してより強く憤っているのではあるまいか。人は往々にして自分の姿がみえない。自分の姿がみえなければ相手のこころもみえてこないのである。秋の夜長に自分の姿を鏡にうつしてみると、自分のこころがみえてこよう。それが時として人のこころでもあるのだ。
 
 
更新日時:
2002/10/08
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