20      苦労は買ってでも‥
 
 拉致被害者5人の方たちが「金日成バッジ」をはずした。
 
 それは固い決意と新たなる出発を象徴する行為であると思われる。金日成バッジは5人にとって単なるバッジではなく、北朝鮮政府への、いや、例の将軍様への忠誠心を示す小道具であった。蓮池薫さんはこう述べていた、「日本に帰ってだいぶ立つのに、向こう(北朝鮮)に対して失礼に当たるのじゃないでしょうか‥」。地村保志さんは、「記念に大切にとっておきます」
 
 相も変わらずメディアの連中はこころない質問や、愚問としか思えないことを尋ねていたし、質問するにも口のききかたをまるで知らない輩もいて、君たちは日本語の運用法を知らないのかとテレビの前で呆れたが、これも時代なのであろう。
 
 曽我ひとみさん、蓮池さん、地村さんご夫婦が、24年間の空白を経てなおこだわり続けている言葉・日本語とは一体いかなるものであったのか。言葉を選びながら語るという行為は何を示唆しているのであろうか。
 
 言葉は美しくあるべきはずである。美しさとは語り手と聞き手双方に不快感を催させず、言葉自体の響きも悪くないものをいう。剛にして柔、それでいて毅然としている、拉致被害者の日本語は美しい。24年間日本語を使えなかった人たちと、毎日使っている連中との言葉の美しさの違い、彼我の差はあまりに大きいのである。
 
ところで巷間伝うるところによると、今回の事は地村保志さんから蓮池透さんに打診されたらしい。「そろそろバッジをはずそうと考えていますが‥。透さんは即答を避けたかったかもしれないがこうこたえた、「はずすなら5人一緒じゃないと‥」。
 
 透さんは早速弟の薫さんに携帯電話した。そのとき薫さんは「実は俺も同じことを考えていたんだ」と言ったという。二組の夫婦は問題ないとして、曽我ひとみさんはどう思うだろう、曽我さんへは蓮池祐木子さんが連絡をとった。曽我さんは祐木子さんからの提案に即答した。「はずしてもいい」。
 
 同じ体験をしたものにしか分からない共通の気持、みなさんの語る言葉の響きと内容にただ頭の下がる思いである。私の母の生前の口癖は「苦労は買ってでもしなさい」であった。今の若い人たちには理解できないかもしれない、誰も苦労なんかしたくない、それをどうして「買ってでも」などと言うのか、冗談ではない‥。
 
 長い間思いもかけない苦労をして、それを乗り越えてきた人に神さまは素晴らしい何かをお与え下さる。苦労こそが私たちを真に鍛えるのだ。そして私たちをある高みに置くのだ。拉致された人々、そしてまた、横田さんご夫婦の日頃の言動を見聞するたびに私は母の言葉を思い出すのである。
 
 
更新日時:
2002/12/20
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