12      乱れる日本語
 
 いまにはじまったことではない、言葉が乱調をきたすのは、その時々の時代々々に必ずといってよいほど存在したもののようであるが、昨今の日本語は乱れに乱れて、収拾不能というところまできてしまったと断じてさしつかえあるまい。
 
 若い人なら、またかと思ってすませるのだが、結構な年輩の人たちまでもがとんでもない誤用をするのだから、恐れ入るというか、呆れるというか、それで安穏と暮らせることを思うと、この国はさぞ暮らしよいのであろう。
 
 近ごろは当たり前のように凶悪殺人が頻繁に横行する。そういう世相であるといえばそれまでで、くれぐれもみなさん気をつけましょう、でも、まさか「わたし」が被害者になるとはゆめゆめ思っていないところがおめでたい。
 
 人が殺されてこういうコメントをのこす熟年主婦もいた。「よくよくの事情でもあるならともかく、行きずりに話をしたこともない人を殺すなんて‥、許せないですネ。」
これはつまり、よくよくの事情さえあれば殺人は許されるという意味であろう。
ところで、会話を交わした相手なら殺してもいいの?
 
 語学学校の20代の女性講師が絞殺されたら、若い生徒(女性)が「○○先生は未来を奪われた」といった。奪われたのは未来ではない、生命である。女性講師は未来、過去、現在のすべて奪われたのであり、全存在を剥奪されたのである。殺害されたとき、未来を奪われたというのは誤用なのだ。
 
 人のいのちが軽んじられた時代はなにも現代だけではないだろうが、人や、人のいのちを語るについての言葉がこれほど乱れている時代も珍しいのではあるまいか。これほど情報、通信、印刷物が豊富な時代にあって、言葉のなんと貧弱で、怪しく不正確なことか。
このまま何事もなく時間が推移するとすれば、あるいは、直に会話を交わす機会が携帯メールなどのさらなる普及によって減少するとすれば‥。
 
 あと十年もすれば携帯電話のメールも飽きられるのではないかと思う反面、ますます横行するとも思われ、70、80を過ぎたじいさん・ばあさんが、携帯なしでは夜も日も明けぬ世の中となるやもしれない。
携帯・メール中毒の50代、60代の女性を私は数名知っているし、先日歌舞伎座でも、幕間さかんにメールしていた60代の女性が近くにいた。
 
 誤解を恐れずにいうと、メールの日本語は言葉を乱す。正しくなくても通じればよいという考え方はともかくとして、言葉の正誤は習慣のものであり、正しくない言葉が正しい言葉を凌駕したとき、正しくない言葉に軍配が上がるのである。正しさというのはその程度のものなのだ、だからミーハーは恐い。
 
 彼らは自分は間違ってはいないと思っている、いや、そもそも間違いか間違いでないかの認識さえ欠如している。こんにち、そう思わせるに充分な日本語の乱れ方である。さてもさても、肌身離さず携帯持つ人たちよ。
 
更新日時:
2003/06/28
次頁 目次 前頁