11      乱れる日本語(2)
 
 夏だというのに寒い。寒さを助長するのはこの国のメディア報道が画一的で、うそ寒いニュースを好んで流しているからである。ニュースは無論事実の部分とそうでない部分とに分かれ、両者が綯い交ぜになってニュースとなる。ニュースを流す側はすでに正義を失っているし、流される側の多くも正義などどうでもよいと思っている。
 
 肝心なのは受けるか受けないか、それだけである。だからニュースは年々劣悪になる一方で、この国全体が劣化しているかのような印象を視聴者に与えるのだ。それが制作者側の狙いかもしれないのだが、この国にはまだ正常で純な部分ものこっている。
のこっていないと決めつけるのはメディアの勝手で、それは君たちが大都会に居て人を信用しないからであり、そのために世の中のことに対して高をくくりすぎるからである。
 
 メディアのなかでも最も罪深いのは民放テレビである。民放テレビの番組制作者の多くはスポンサーに媚びへつらい、視聴率稼ぎに日夜奔走するあまり、この二十年間あまりにもくだらない番組を作りすぎた。
我慢すること、譲り合うことをつまらないとするタレントを多用し、彼らが若者を代表するリーダーかなにかのように扱い、彼らをもてはやしすぎた。
 
彼らに一番欠けるのは愛である。自己への愛は人百倍、他者への愛はゼロ、そういうタレントに番組を持たせたために、愚かな若者がボウフラのごとく異常発生し、わが意を得たりと台頭しはじめたのである。
そして彼らの多くは状況判断ができない。状況判断ができなければ、自分の行為が他人に迷惑をかけているかどうかの認識もなく、他人にどう思われようが平気なのだ。
 
 そしてまた、彼らに特徴的なのは自己愛であり、愛してもらいたいのは常におのれであり、他者を愛する心は毛頭ない。なぜなら、他者を愛するのは骨が折れ、我慢と謙譲の心を要するからである。彼らは奪うことは得意とするが、奪われることには拒否反応を示す。
辛抱するのがイヤなのだ。辛抱しない愛は愛とはいえないのだが、彼らにはそれが分からない。分からないまま他者からは愛されたいのである。
 
 毎日乱れに乱れている日本語だがきょうも乱れた。若い女が「礼儀が悪い」と言ったのだが、礼儀は悪いとか良いとはいわない、礼儀は正しいか正しくないという。悪いというのはマナーである。その女は、礼儀が悪い者がいることで安心できるとも言っていた。
 
 この種のさきがけとなったのは兵庫県尼崎市潮江出身の浜田某と松本某である、彼らをもてはやすテレビ制作者である、彼らに共感をおぼえる人たちである、美醜の見きわめをないがしろにし、辛抱する愛を拒絶し、言葉のもつ美しい旋律と響きを乱すのは。
 
更新日時:
2003/06/29
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