10      乱れる日本語(3)
 
 こういう内容のことを書き連ねると、またかと思う人もいるが、それはそれ、言葉の乱れはつまるところ世相の反映であってみれば、各人の考え方も反映されるのである。
 
 2年ほど前に知人の知人が預金通帳と印鑑を盗まれた。本人はそのことに全く気づかず、車を買い換えるときの頭金を引き出そうとキャッシュカードをATMに挿入したが、ATMの反応にその人は凍りついたという。
身体から血の気が引いていくのが自分でもはっきり分かったが、どうしてよいか分からず銀行(東京三菱)の窓口に事情を話したらしい。
 
 そこでその人の凍りついた身体は一瞬にして解凍し、頭から湯気がのぼったという。窓口の女行員いわく、「毎日、何人窓口にいらっしゃるとお思いですか」‥。通帳から預金は消え、意気消沈している者に向かってあまりの対応と思わず激昂し、その女を引っぱたいてやろうかと思ったそうである。
 
 要するに盗られるほうが悪いということでしょうな、そう思われても仕方のない応対の言葉である。こういう手合いがいつの頃からか激増して、小生も似たような応対を新生銀行(旧長銀)でされたことがある。
これはもう、窓口業務に携わる行員が生意気とか失礼とかの範疇を越え、日本語あるいは言葉を知らないとしか言いようのない事態である。
 
 それで将来どういうことになるかというと、なに、どういうことにもなりません。そういう手合いは彼女や彼だけではなく、彼らの大勢がそういう手合い‥おそらく全体の七〜八割‥となっているから、あまり目立たないのである。
いまは目立ってはいるが、仲間内なら違和感もなく目立つまい。右をみても、左をみても、同類だらけなら目立つはずもなかろう。寒い話だが、同類同士が同類のよしみでうまく折り合ってゆけるということなのだ。
 
四半世紀も経過すれば、私たちの世代はすでに殆どが鬼籍入りしている。
文句を云う人も激昂する人もきわめて少数となっているだろう。
いや、そうともいえないかもしれぬ、なにしろ高齢化社会の到来である、可能性は低いかもしれないが、小生も高齢化の波に飲まれ、翻弄されながら青息吐息で生き恥をさらしているやもしれない。
 
 前世紀末あたりから着実に変化は起きている。いつの世も殺伐とした時期はあったろうし、それが単なる過渡期として存在したこともあったろうが、今世紀は確実に殺伐の度合いがつのっているように思われる。何がどう変化したのか、それはその人の思考と経験によって思うところは異なるはずだ。
 
 だが、これだけはいえるのではあるまいか。美しいもの、美しい言葉が少なくなった。少なくなった分だけ自分勝手な愛が、自分にしか通用しない愛が増え、わがもの顔に闊歩している。
 
更新日時:
2003/07/05
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