3   2002年7月松竹座昼の部「鳥辺山心中」
更新日時:
2002/09/12 
 
 平成8年12月南座顔見世以来の鳥辺山。あの時は梅玉の半九郎、鴈治郎のお染、今回の半九郎は仁左衛門、お染は雀右衛門である。
 
 一幕目、お染の父親が誂えものの晴着を持参する場面。お染の廓勤め初めての正月で、その祝いの品である。娘には藤色、半九郎には黒の着物。お染のセリフ「ととさん、たんとお礼をいいますぞえ」に情と品がある。仁左衛門演じる半九郎は、将軍が京に上ったさいにお供する旗本なのだが、将軍が江戸に帰るので、自分も帰らざるをえない。しかし、お染となさぬ仲になっているので、別れを言い出すのがつらい。
 
 半九郎の親友・坂田市之助(菊五郎)と茶屋遊びをしている場面は秀逸。同席する遊女お花に秀太郎。言うまでもなく、こういう役は秀太郎の手の内である。遊廓のあでやかな雰囲気が舞台一杯に広がる。半九郎が自分の刀を質草に二百両を用立てしてはくれまいかと市之助に依頼するのだが、そこでのセリフで、「京のうぐいすを籠から放す」と言う。勿論これはお染を身請けして自由の身にするという事である。
 
  菊五郎はその時こう言う、「わしもうぐいすが大好きじゃ」。この人がこういうセリフをいう時のうまさは格別で、菊五郎自身の色気ばかりか、茶屋の遊女のたえなる色気までもが舞台から立ちのぼる。役者が揃い、華やかで濃密な景色である。
 
 そこへ菊五郎の弟・源三郎(翫雀)が現れる。兄の廓通いと酔態をとがめ、遊女をなじる。まさに不粋の極み。兄は弟の言をいっこうに取り合わず、「おまえは先に帰れ」と弟をたしなめて、遊女お花と奥へ消える。こうした時の消え方も菊五郎はうまい。遊女との色事を匂わせることで、不粋な弟がいっそう浮き立ち、弟のさらなる怒りを予感させる。
 
 予想通り、源三郎は兄への憤りを半九郎にぶつける。半九郎にむかって、「侍の面汚し」と罵倒し、「京の遊里に入りびたっている江戸の武士は、武士の面汚しといわれて当然」と繰り返し悪態をつく。お染が仲裁しようとするのだが、火に油をそそぎ何の効果もない。攻撃的な性格と言動は、常に次なる災いを呼び、悲劇を生じさせる。短慮は損慮なのである。
 
 第二幕目、夜の賀茂川、四条大橋、冬なのになぜか朧月夜。遠くの山並み、溶けるような美しい夜に刀を交えた侍二人の登場。月が雲に隠れ、見えてはまた隠れる。こう書くと、四条河原の夜の情景とは好対照な武士の殺気を感じて面白そうであるが、実はこの場面、大道具手抜きの急ごしらえ。半九郎と源三郎が河原へ駈けだしたところで舞台が回り、艶(なま)めかしいばかりの夜の四条河原になるのが本来の形である。
 
 いったん幕を引いて場面がかわるより、盆が回って忽然と美しい夜の光景があらわれるほうが遙かに勝る。観客の息を呑む気配にこそ大道具も面目躍如するのだから。それと、照明が悪い。こしらえが同じでも照明が明るすぎて、侍二人の心の奥深さが伝わってこない。
 
 また、時間の経過にしたがって照明が少しずつ暗くなるという当たり前の工夫がなく、これでは行き詰まった男女が心中するという心理描写が全く生かされない。明と暗はそのまま人間の陰と陽であり、心の変化なのだ。照明係の怠慢というほかない大チョンボである。「鳥辺山心中」が新作歌舞伎(大正4年初演・岡本綺堂作)でなければ照明のことはあえて伏せることもできようが、新作ならばそれなりの工夫があるべきはず。
 
 夜の四条河原の場で出色であったのはやはり仁左衛門。賀茂川の水を手ですくい、ひと口飲む様は、絵の川がさやさや流れて、仁左衛門の手から水が数滴こぼれ落ちる風情であった。川の両側に建つ数軒の茶屋からもれる灯りが妙に懐かしい。
 
 心中するふたり(半九郎とお染)の情愛がこぼれる場面には堪能した。よくできたドラマは時をこえ常にリアルなのである。新作歌舞伎を役者がリアルに演じるのはむしろ当然というべきであろう。


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