17   2001年4月松竹座夜の部・「六歌仙」
更新日時:
2001/04/06 
 「前置き」をいう。「六歌仙」とは僧正遍昭、文屋康秀、在原業平、喜撰法師、大伴黒主の五人が順番に出てきて小野小町を口説き落とそうとして踊る所作事である。
寛政元年というから1789年、大坂・中の芝居(中座)で踊った初代嵐雛助の「化粧(よそおい)六歌仙」を粉本に二代目芝翫、のちの四代目歌右衛門が「六歌仙容彩」(ろっかせんすがたのいろどり)として天保二年(1831)中村座で初演された。
 
 大阪にも十代目三津五郎にも縁の深い所作事である。というのも、当代の曾祖父・七代目は四代目芝翫の薫陶を受け、自らも「踊りの神様」と称され、六歌仙を得意としていたからである。
 
 遍昭は踊りらしいものはないので省く。
「文屋」は百人一首「吹くからに野辺の草木の萎るれば むべ山風を嵐というらん」で知られた歌人であるが、あまり評判は良くない。言葉は巧みだが、姿に品がなく商人が上等の衣裳(なり)をしてお公家のまねをしているなどと酷評されている。
しかし、「六歌仙」の文屋はまず気品、そして瓢軽が要求される。
これは十代目三津五郎の手の内、得意とする類の踊りである。
清元「〜届かぬながら狙いきて」で風折(かざおり)烏帽子、狩衣姿で浮き浮きと出てきたところ、いかつい女官たちが立ちはだかる。
 
 七世清元延寿太夫の艶のある声は健在。ただ、この人、見るたびに白髪が増える。この何年かで老け込んだ気がしてならない。勿論、まだそんな年ではない。勘九郎と従兄弟、互いの母親は六代目菊五郎の娘である。
志寿太夫が天寿を全うした今、聞き惚れて舞台を見るのがおろそかになるほどの声ゆえ気懸かりで仕方がない。
 
 〜寄るを突きぬけ」からは文屋の独壇場。愛嬌、洒脱、自在が一挙に噴出する。
〜地下(じげ)の女子(おなご)の」で烏帽子と狩衣を脱いでの踊り。文屋の身体がいっそうキビキビする下りである。
〜逢う恋、待つ恋、忍ぶ恋」で女官に扮した弥十郎を「おはん抱き」(西部劇などで主役が両腕で女の全身を抱き上げる)にしたところは滑稽。なにしろ弥十郎は梨園一の身長である、小さい文屋がつぶれるかと客は思うが、そこはサービス。
〜富士や浅間」は文屋がもっとも気を入れて踊るが、〜煙はおろか」ではふんわり煙のゆらめくように踊る。これも上出来。
 
 「業平」は文屋の瓢軽の代わりに色気がいる。これも当代は得意。
〜神に誠を明石潟」では、「小町と業平が互いに手を開いて拝んで、お終いに互いに手を取って上手へ押す振りがありますが、ここは業平の心情を十分見せるところで、それだけに一番難しいところです。気品と色気をもって、ふっくりと踊るところです」と七代目三津五郎は「舞踊藝話」で語っている。
 
 「業平」の眼目のひとつは扇さばき、などという評論は何処にもないだろうが、扇が花になり鳥になり風になり月になる。花鳥風月、それを一本の扇によって見事に表現する。春爛漫、三津五郎の真価が発揮された。
菊之助の小町は平凡。
 
 「喜撰」がもっとも見応えがあった。これには七代目の口伝がある。
「足でも身体でも、すべて立役と女形の中間(あいだ)で踊るもので、それでないと、坊さんにはなりません」
坊主の振りは富十郎も得意とするが、今回の喜撰も富十郎の坊主と双璧と言ってよい出来。
足運び、目の動き、色気、ともにおかしみに溢れ、客席の笑いを誘う無類の面白さ。うまくて呆気にとられた客も多かったであろう。
「佐渡嶋日記」に「振りは人間の身体の如し、目は魂の如し」とあるように、目の使い方ひとつで所作事の成果は決まる。
ただ、「六歌仙」終了後、この日の喜撰はやや目を使いすぎたようにも思えた。
愛嬌は程度が難しい。所作事の場合、面白すぎると後で何処か気になることが出て来るのかもしれない。
 
 〜小野の夕立」でお梶がからむ。お梶の菊五郎はさすがの出来。踊りに花と切れがあり、動きにムダがない。
〜住吉さまの岸の姫松めでたさよ」で傘を立てて迎え坊主が廻るのは、住吉踊の傘である。
 
 「黒主」は特にいうべきものはない。
 
 1月、2月の歌舞伎座襲名披露でも当代は「六歌仙」を通しで踊らなかった。今度いつ通して踊るか分からない。過去に通しで踊ったのは二代目芝翫と四代目芝翫だけではなかったろうか。
詳しい記録をご存知の方がいらっしゃれば教えていただきたい。
 
 「喜撰」は当代三津五郎の一生の当たり芸になるに相違ない。
 
 
 
 
 
 
 


次頁 目次 前頁