18   歌右衛門の死と藤十郎の復活
更新日時:
2001/04/11 
 東京では例年より早く桜が咲き、花見気分に浮かれ始めた折も折、歌右衛門逝去の知らせが入った。立川ではほぼ満開に近い桜に時ならぬ雪が降り、なにやら春の嵐を思わせる陽気となった矢先のことである。歌右衛門は以前から病床に伏していると伝えられていた。 こういうことを言うのは極めて不謹慎であることを承知の上で言うが、時間の問題であった。
戦後最高の女形の死はおおかたの胸中に暗黙裡に了解されていたのである。
歌右衛門の芸については渡辺保の名著「女形の運命」および「歌右衛門伝説」に詳しく記されているので、是非お読みいただきたい。ひとり歌右衛門だけでなく、歌舞伎の深層、役者の人間としての懊悩、舞台に立つということの厳しさ、役者と神との関わり方、総じて日本文化の中の歌舞伎が手に取るように眺望できるであろう。
眺めのよさと面白さ、けだし名著の名著たる所以である。
 
 歌右衛門の死の二日前、松竹は中村鴈治郎の四代目坂田藤十郎襲名を発表した。三代目藤十郎の死から実に231年ぶり(襲名は2005年)の京・大坂の大名跡の復活。
上方歌舞伎の凋落ぶりに落胆の日々を送ってきた筆者としては、まず三世鴈治郎の藤十郎襲名を心から喜びたい。「近松座」旗揚げから二十年、近松物の復活狂言に挑戦し続けた鴈治郎の積年の努力と執念が報われたのである。
 
 さて、歌右衛門の死と藤十郎の復活、偶然すぎるとお思いの方も多かろう。
それもそのはず、この平成の歴史的出来事は松竹・永山武臣会長によって巧みに演出されたと思うのは筆者の穿った見方であろうか。歌右衛門の余命が残り幾ばくもないと認識している者でなければ、かくも見事な偶然を作り上げることはできまい。
永山武臣氏の手腕ここに極まれり、と言いたいところであるが、筆者の考えは他にある。
 
 2002年の辰之助の松緑襲名、2004年の新之助の海老蔵襲名、そして2005年の勘九郎の勘三郎襲名と鴈治郎の藤十郎襲名。これらすべて永山武臣氏の威光あまねく行き渡る時をもってよしとなせる業であろう。
永山氏とてそこそこ高齢、戦後の動乱期を歌舞伎とともに生きてきた氏とすれば、これが最後の「仕どころ」であるのかもしれない。
 


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