15   2001年4月松竹座昼の部「寺子屋」
更新日時:
2001/04/12 
 十代目三津五郎襲名披露の狂言で、三津五郎が松王丸である。
 
 涎くりの弥十郎、梨園一の身長を小さく見せる巧みさに技あり。
最初のほうで、松王女房千代が子・小太郎を寺子屋に連れて来ての源蔵女房戸浪とのやりとり、小太郎の「かかさま、わしも行きたいわいのう」などはカット。ここは後の場面の大きな伏線になる。短い場面ゆえにやってもらいたかった。
 
仁左衛門の武部源蔵の花道の出での思い入れ。例の「氏より育ち」のせりふであるが、もとよりこの人は松王役者、今回三津五郎の松王で源蔵にまわった。
これが役者どうしの付き合いというものであろうが、源蔵のせりふ回しを聞いていると、ああ、やっぱりこの人は松王が似つかわしいなと思う。
 
あの野太い声。それでいて劇場のすみずみまで行き渡る口跡の良さ。
オペラ「リゴレット」のリゴレット、「オテロ」のイアーゴ、「ドン・カルロ」のロドリーゴのような太く逞しいバリトン、それこそ仁左衛門の本分なのだから。
松王の発声はそういう野太い声であるが、源蔵は違う。だから違和感がある。
仁左衛門には松王が乗りうつっているのである。それが証拠に三津五郎の松王に対して、「梅はとび桜は枯るる世の中に」と言う下りなどは、いつの間にか自分が松王になっていたではないか。
仁左衛門の演技が変だと言っているのではない、この人には松王が憑(つ)いているのだ。
 
 「かりそめならぬ右大臣が」(ここは、かりそめならぬ菅家の公達、となる場合もある)のせりふから仁左衛門の真価が出る。
 
 さて、三津五郎の松王である。三津五郎のせりふ回しはいつもながら聞かせる。
松王は初役ゆえどうかなと思ったが、やや風格に欠けるきらいはあっても、まずまず合格。
松王の心根を思うと陰々滅々たる気分になるのだが、それをどう表現するか、その出来不出来で松王の評価が決まる。
 
 まず我が子を犠牲にせねばならない。
桜丸、梅王丸との三つ子の因縁もある。
この三つ子の三兄弟は時代を背景とする社会構造の犠牲者である。
親が受けた恩を返すために我が子を犠牲にするというのは、究極の犠牲者かもしれない。
父親のかなしみを表すだけでなく、社会構造に対する憎しみをこころに抱いていなければならない。
しかも、そのかなしみも憎しみも表面には出せない。そして、その表面に出せない悔しさもこころに深く抱いていなければならぬ。
 
 それだけに松王を演じるのは難しいし、難しいがゆえに立役の腕の見せ所なのである。
いまの21世紀の世相をご覧じろ、親の深いかなしみどころか、いたいけない子供を虐待し、あげくに殺す。
それを舞台の上ではなく現実の生活の中で平気でやってのける。
彼我のこの違い。歌舞伎が21世紀に果たす役割はまだまだ大きいのである。
 
 そこで三津五郎の松王だが、「生顔と死顔は相好が変わる」のせりふはやや思い入れ不足。いやでも我が子の首を見なければならない父親のかなしさを、首検分役の猛々しさの中に忍び込ませるのはかくも難しいことなのか。
 
 松王が憑いた仁左衛門がやったときは涙が溢れて止まらなかったものだが。
特に「持つべきものは子でござる」のせりふを仁左衛門が言った時は涙で何も見えなくなった。
 
 戸浪に対して「無礼者め」と言う見せ場でも、見得の切り方にもう一工夫必要。
ここは舞台全体に緊張感が漲る場面である。
「管秀才の首に相違ない」のところは型通り。
所作事では大向こうを唸らせる三津五郎の今後の課題は、松王のような肚でやる難しい役をいかに自分のものにするかであろう。
 
 秀太郎の源蔵女房戸浪は手堅い。世話のこころで演じる時代物はこの人の手の内。
 
 最後は菊五郎の松王女房千代である。
吉右衛門や団十郎の源蔵で戸浪役を付き合うことの多い菊五郎であるが、千代も手練れたもの。
すでに我が子が首をはねられているのを承知しながら、奥に向かって、「小太郎や、これ小太郎や」というところは、ただそれだけのせりふなのに泣けてきた。
 
 源蔵に対して、「お役に立てて下さんしたか、但しはまだか」と言う下りに来て、涙が止まらず困った。
「寺子屋」は何度も見ているが、松王のせりふに対してではなく、千代のせりふに涙を流したのは初めてである。
菊五郎が千代をこれほどリアルに演じるとは思ってもみなかった。歌右衛門や芝翫は勿論、鴈治郎でさえ古風にやったものだが。
 
 故歌右衛門は、後輩の女形にこういう事を常々言っていた。
 
 リアルになってはいけない。型にはまってはいけない。器用になってはいけない。気持がなくてはいけない。
歌右衛門の四ないづくしとでも言ったらよいのか。
これは、女形だけではなく歌舞伎役者の心得であろう。
 
 だが、菊五郎はあえてその教え「リアルになってはいけない」に従わなかった。
 何故であろう。
 
 菊五郎はリアルに演じることで、幼児虐待という今の世相を役柄に反映させたのだ。
母の子への強い愛は何処へ行ったのか、そう言いたかったに違いない。
そうなのである。江戸時代、歌舞伎は現代であった。常にその時その時の世相をいちはやく取り入れ、舞台に、役柄に反映させていたのである。
菊五郎恐るべし。
 
 現代に内含される社会問題、世相を菊五郎独特の感性でとらえ、型にはまることなく、型を崩すことなく、この人の鋭敏な時代感覚で歌舞伎の写実的現代を見事に舞台に出しきった。
上上吉のできばえ。
 
 「寺子屋」は不朽の名作なのである。
 
 


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