エフゲニー・キーシン
エフゲニー・キーシン
 キーシンは1971年モスクワ生まれの「Passionate Pianist」です。どういう所がといいますと、まず演奏時の姿勢、態度、演奏そのもの、鍵盤の叩きどころ、足の踏み方(ペダル)、そしてアンコール。
 
 キーシンを初めて聴いたのは94年11月15日大阪シンフォニーホールでした。いまでもはっきり目に焼き付いています。
あのグランド・ピアノがオモチャに見えました。帰りの車の中でつれあいに感想を求めたら、彼女も「ピアノがおもちゃのピアノに見えた」としみじみ言ったものでした。
 
 94年は月に三回はどこかのコンサート会場に足を運びましたが、同年のダントツNO.1はこの時のキーシンでした。迫力という言葉が空虚に感じるまでの大迫力、大魔神キーシン。この大魔神という言葉は、プロ野球投手だった佐々木主浩氏の横浜時代の呼称でしょうが、それより前にキーシンをそう名付けておりました。
この時はハイドン「ピアノ・ソナタ 変ホ長調」、ベートーヴェン「月光」、ブラームス「三つの間奏曲 op.117」など、約2時間。しかし、その後アンコールが13曲、約2時間。ド迫力の、しかしアッという間の4時間でした。
 
 キーシンとの再会は96年10月25日シンフォニーホール、25歳になっていました。ベートーヴェンの「ロンド」、「ロンド・ア・カプリッチョ」、シューベルト「ピアノ・ソナタ第19番」、ショパン「バラード全曲」、 そして怒濤のアンコール。
 
 再々会は98年11月7日シンフォニーホール。ショパン「24の前奏曲」、リスト「ピアノ・ソナタ ロ短調」、そして、ああ!気が変になりそうな、あの急所に届くエクスタシー、くだける波、押し寄せる波、恍惚のアンコールよ!
 
そして01年4月20日、わたしは風邪をひいて京都コンサートホールへ行けなかった。ものすごい欲求不満が沸きあがり、身体がムズムズしてどうしようもありませんでした。勿論、チケットはパアです。
 
 
 キーシンはブーニンのようにコンクールの優勝者ではありません。でも、96年2月2日シンフォニーホールでブーニンのショパンやドビッシー、シューベルトを聴きましたが、ブーニンはどこかの学生が几帳面に演奏しました、はい、正確によく弾けましたね、ではさようなら、という程度のもの。キーシンとは月とすっぽん、較べるのも愚かしいのです。
 
 コンクールの勝者をありがたがる人々よ、君たちは考えをあらたにせねばならないでしょう。コンクールを経ずして、かくも見事なソリストが存在するのです。
 
 そして03年11月18日シンフォニーホール、キーシン32歳。シューベルト「ピアノ・ソナタ第21番変ロ長調」、同歌曲集「美しい水車小屋の娘」より、リスト「ペトラルカのソネット第104番」など。
 
 シューベルトのソナタを聴きながら思ったのは、久しぶりのキーシンは曲の解釈がふかくなったということでした。
赤貧洗うがごとしの音楽家だったシューベルト、にもかかわらず、いや、だからこそ生真面目に作曲に打ち込んだシューベルトのやるせなさ、こわれやすさ、報われない思いを存分に表現していたのです。シューベルトは31歳で亡くなりました。
 
 出だしはいつもよりノリのよくなかったキーシンでしたが、「美しい水車小屋の娘」あたりから調子が出てきました。今回のアンコールはリスト「ハンガリー狂詩曲」、同「ウィーンの夜会」など7曲。
 
 5年ぶり、21世紀のキーシンはよかったのですが、アンコール時、観客のなかの若い女や子供に甲子園球場の阪神ファンのようなやかましい連中がいて、さかんにキーキー声を張りあげていたのは興ざめでした。コンサート会場の21世紀は甲子園と化すのでありましょうか。

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