64      羽左衛門の死
 17世市村羽左衛門が肺ガンによる呼吸不全で亡くなった、84歳であった。六代目菊五郎の厳しい修業のもとに幼少期から芸をみがき、六代目の薫陶を大いに受けた最後の歌舞伎役者である。古典芸能の継承者にとって、変化はむしろ不要であり、進化こそが求められる。羽左衛門は74歳で「勧進帳」の弁慶を演じたが、立ち姿、所作、口跡、せりふ回しのすべてにおいて堂々たる弁慶であった。
 
 六代目は勿論弁慶役者ではなかったが、70代にしてまだ進化の可能であることを身をもって証明するというのも歌舞伎役者ならではの真骨頂であろう。
 
 羽左衛門は今年四月松竹座で八十助が十代目三津五郎を襲名したおり元締め役をつとめ、元気に口上を述べていたのだが、襲名披露を終えて体調を崩し、四月松竹座が最後の舞台となった。
 
 羽左衛門の舞台で強く印象にのこっているのは、ずいぶん前になるが名古屋・御園座の「楼門五三桐」(さんもんごさんのきり)である。真柴久吉を梅幸がつきあい五右衛門をやったのであるが、そのときの芸容の大きさに圧倒された。
 
 楼門といえば、二世延若の五右衛門が動く錦絵といわれ、いまも語り草になっていて、古風な顔立ちと芸の大きさ、そして花のある役者でないと位負けするほどの役である。二世延若の楼門はあいにくモノクロ撮影のフイルムでしか見ていない。
 
 羽左衛門の死で、九代目団十郎〜七代目幸四郎と継承された芸、六代目菊五郎型の芸を後の世に伝える役者はいなくなった。歌舞伎界にとって大いなる損失である。
 
 いまの梨園を眺むるに、立役では芸容の大きさを保持していると思う役者は数名しかいない。かれらは常に進化している。型を守り、しかも型に縛られず。
歌舞伎を思うと現代を思う。人は変化する。しかし、人はひどく型に縛られる。縛られながら変化する。そしてそれは変化であって進化ではないのである。
 
 進化はおそらく厳しい修業のもとでしか生まれてこない。打たれ、磨かれ、なにくそと向上する強い意志がなければ進化は到底望めないのである。
 
 
 
更新日時:
2001/07/09
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