1      守るべきもの
 
 この国の多くの人たちはそうだと思うが、16〜20歳までは自分が守られる立場にあった。精神の自立は16歳以下からはじまることもあるが、経済の自立はこの国の経済高度成長期の豊かさもあって、おおむね16歳以下にはじまることは稀であると思う。
 
 そのときの状況がその人を左右することはいまさら言及するまでもない。守られている時期、または、守られている環境ではほとんどみえてこない事、みようとしない事の多くが、自分で自分を守らざるをえなくなった時にみえてくる。
 
 ふつうはそういうものなのだが、自分自身を守らざるをえなくなってもみえてこない人もいる。これは、地位、職業、経歴に関係ない。あえていえば性格に関係があるだろう。あるいは、歴史とか伝統に関係しているかもしれない。
 
 愛するものを守るのはなぜか。口に出さずとも、守るべき何ごとかを心中に秘めているからであろう。愛さずとも守るのはなぜか。君自身の誇りと信念がそうするのだろう。それこそが君自身の精神の発露である。そして、誇りはもともと愛と血縁関係にありはすまいか。誇りの多くは自己愛である。
 
 何かを信じるから別のことを疑うのである。何も信じず、ただ疑うのは懐疑主義ではない、単なる天邪鬼である。昨今のメディアは天邪鬼が激増した。
 
 町の美観が守られるのは、そこを愛し、守ることを誇りとする住民が代々その町に暮らしているからである。あした引っ越す人々ばかりなら、町を守る心の継続はない。イタリア、フランス、スペイン、英国などの小都市、田舎‥シエナやサルラ、ロンダやスローター村‥で美観が守られているのはそういう理由と、ナショナル・トラストのような団体の信念が介在することによる。
 
 経済最優先の50年、わが同胞は、はたして何を守ってきたろうか。かれらは何を守ろうとしているのか、守るべきものは何と考えてきたのであろうか、私にはさっぱり分からない。
外国人、特に中国からの闖入者に財産・生命をおびやかされているのも、守るべきものを見失っていることと関係があるかもしれぬと訝(いぶか)っている。
 
更新日時:
2003/10/15
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