旅の成否はホテルの良し悪しで決まることがあります
ホテルの良し悪しは、部屋とスタッフの良し悪しで決まることが多いようです
特にスタッフの質は宿泊客の快、不快に大きな影響を及ぼします
 
THE ORIENTAL  バンコク
THE ORIENTAL  バンコク
 
この画像はホテル発行の宿泊カード。「WELCOME TO THE ORIENTAL」の右下611はルームナンバー。末尾2桁に11のつく部屋はすべて角部屋のセミスイート・ルーム。
 
画像はオリエンタル創業時のもので、現在も残っており、バンコクの富豪がパーティに利用しているようです。
 
THE ORIENTAL 2
THE ORIENTAL 2
 
チャオ・プラヤ川に面したコーヒーショップ「ザ・ヴェランダ」。宿泊したのは1988年12月。その頃は団体客の受け入れをしていなかったせいか、優雅にコロニアル気分を満喫できた。
 
欧米のビジネスマン1万人の選ぶ世界のトップホテル・ベスト100の一位か二位に常時名を連ねていたのもその頃。
89〜90年頃から団体客の受け容れに手を出し評判はガタ落ち。古くからの顧客の多くを失った。
THE REGENT  香港
THE REGENT  香港
 
80年代後半、ロケーションの良さとスタッフのクオリティの高さで、欧米からの旅行者・ビジネスマンの間で急速に人気が出た。
 
ここのリムジン・ディムラーはあまりにも有名。そのディムラーを常時5台チャーターした変な客として、私の名はホテル名がインター・コンチネンタルとなったいまも顧客リストに載っている。
THE REGENT 2
THE REGENT 2
 
リージェントのグランドフロアにあるコーヒーショップ。対岸のビルはアドミラル〜セントラルのオフィスビル。
 
リージェントには25回ほど宿泊する幸運に恵まれたが、このホテルの欠点は壁の防音にある。閉口したのは夜中のどんちゃん騒ぎ、次はアレの時のwomanの絶叫。ドンチャン騒ぎの場合はじかに電話して静かにさせました。
THE PENINSULA  香港
THE PENINSULA  香港
 
香港の最古参ペニンシュラは1988年くらいまでがよかった。まさに古き良き時代の反映、バンコク・オリエンタル同様コロニアルムードにあふれていた。エレベーターは年老いたバトラーのようなお爺さんが必ずサポートし、ベルボーイは10〜12歳くらいの可愛い少年がアシスト。
 
グランド・フロアで人を呼び出す時、片手にチリンチリンと鳴る小さな鈴を鳴らし‥「ベルボーイ」の名はそこから生まれた‥もう一方の手にチョークで名前を書いた看板をかかげ、軽快に歩いていた。コンシェルジュは香港のことなら何でもござれの専門家が3人。
 
もっとも若かったジョナサンはとても生真面目なやつで、自分の家を訪問した特別の人のようにわれわれをもてなしてくれた。あまりの馬鹿丁寧さに、こっちが申し訳ないほどであった。
2階「ヴェランダ」のマーマレードは絶品で、黒に近い濃い橙色だった。ある朝、このマーマレードの味が変わっていた。隣で朝食をとっていた英国人夫婦のご主人が給仕長を呼んでクレームをつけた。その頃(1989年)からペニンシュラはダメになった。
ペニンシュラについては「EssayV」の「ペニンシュラ・ホテル」へ。
 
THE PENINSULA 2
THE PENINSULA 2
これはペニンシュラのリムジン「シルバー・スピリッツ」(ロールス・ロイス)のボンネットのトレード・マークである。
 
われわれは86〜88年頃、このリムジンを5台チャーターしようとしたが、「あなたたちは総勢10人しかいないのにもったいない、3台で十分です」とジョナサンに言われた。すったもんだの挙げ句ジョナサンを説き伏せ、結局5台チャーターした。以来、トップ・オブ・ザ・ピーク(観光客の行くピークではない、プライベートな場所にあって、香港島一番の高台)に登る時は5台、6人の時も3台チャーターし、夫婦一組に1台の原則を貫き通した。彼らが気づいたかどうかは不明だが、プライベートを保つことで優雅に旅行気分を満喫してもらいたかったのである。
 
私は、8年間に50回香港へ行く事となった。そこまでは数えていたが、その後の4年間は数えていない。ペニンシュラのグランド・フロアに「BALLY」があり、そこにホンコン・チャイニーズの親友がいたのだが、返還前年にカルガリーに移住してしまった。爾来、香港から足が遠のいた。
 
VILLA D’ESTE  イタリア・コモ湖
VILLA D’ESTE  イタリア・コモ湖
 
イタリア・コモ湖のホテル「ヴィラ・デステ」の数ある庭のひとつ。朝食用レストランから眺めることができる。
 
レセプションには京都・蹴上の都ホテルから派遣された川端さんという日本人がいた。このホテルはすでに日本からの団体客を受け入れていて(89年7月当時)、川端氏は親切であったが、すっかり興ざめしたホテルである。
 
VILLA D’ESTE 2 
VILLA D’ESTE 2 
 
ヴィラ・デステの旧館。新館より割安の宿泊料を設定しています。部屋は新館に較べて充分以上の広さですが、エアコンは完備していません。真夏の異常高温の日の滞在には向いていないでしょう。厳冬時は強力なスチームが効果を発揮します。
このホテルのパスタはまあまあの味でした。イタリア・ワインも手頃な値段のものがありました。
 
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HOTEL IMPERIAL  ウィーン
HOTEL IMPERIAL  ウィーン
 
ホテル・インペリアルは、ハプスブルク家の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が、ウィーン万国博に各国の貴賓客をもてなす迎賓館として利用して以来、歴史の表舞台に登場する。ヨーゼフはその後、この館を自らの個人的執務室にした。第二次大戦中は、ナチス・ドイツのオーストリア併合により館は接収され、だれあろう、アドルフ・ヒットラーが館の主となる。
 
終戦後は米、英、ソ連合軍の本部となり、1955年ようやくオーストリアに返還、ホテルとして本格的に開業する。
オーストリアはスイスと違って石油化学工業や精密機械、銀行業といったもので外貨を得ているわけではなく、観光業の依存度がきわめて高い。したがって金がモノをいうが、ウィーンはことにその傾向が強い。
HOTEL IMPERIAL 2
HOTEL IMPERIAL 2
 
ホテル2階の踊り場に掛けてあるエリザベートの肖像画。上記のフランツ・ヨーゼフの奥方、つまり皇后。お会いしたことはないが絶世の美女で、いまだにウィーン子に人気があるらしい。例のルートヴィッヒ2世の従姉にあたる。
夫との間にもうけた一人息子の皇太子ルドルフは、マイヤーリンクで若いユダヤ系の女と謎の自殺を遂げる。エリザベート自身も、1899年ジュネーブで狂信者に命を奪われる。
 
ところで、ホテル1階の「カフェ・インペリアル」のコーヒーは美味であるが、ホーフブルク宮殿そばの「カフェ・デーメル」の味には到底及ばない。カフェ・デーメルのコーヒーは、私の入れたコーヒーといい勝負‥‥。
 
このホテルの良い点は、コーヒーと、裏にある楽友協会に近いという事だけ。96年10月に3連泊したが、ルームサービスの和食の味は特筆に値する。どうしたらあんなにまずい料理ができるのだろう。総じて、インペリアルはスタッフの態度が慇懃無礼で、快適な滞在は保証のかぎりではない。
 
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